10月2日

2000-10-02 lundi

川成洋『大学崩壊!』(宝島社新書)を読む。
大学の知的崩壊については、これまでおもに大学生の学力低下が論じられてきたが、この本では大学教授のバカさという「それは言わない約束でしょ」的真実が赤裸々に暴露されている。
大学教授の恐るべき実態については筒井康隆の『文学部唯野教授』という傑作があるが、川成先生によると、あれはほぼ事実だ、ということである。(わお)
1980年に文部省が全国の大学(国公立私立)の全教員について調査を行い、過去五年間に何本の研究論文を書いたか調べたところ、一本も書いてない教員が25%だったそうである。
助手、専任講師、助教授は昇格人事があるので、論文執筆がほぼ義務化しているから、この25%の過半はもう審査される心配のない教授職にあるものと思われる。
全教員中の教授の比率は大学毎に違うが、それでも25%というのは全教員数に占める教授の比率にほぼ等しい。つまり、大ざっぱに言って、大学教授のほとんどは過去5年間に一本も論文を書いていない、というのが日本の大学の実状なのである。(その後、文部省はこの種の調査をしていない。よほどショックだったのだろう。)
もちろん5年間何も書いていない人が6年目に満を持して大論文を書くということはふつうあまりない。
あまり書かずにいると書き方を忘れてしまう、ということもあるが、論文というのはリアルタイムで進行している研究主題に活性化されて、「勢い」でわっと書いてしまうことが多いので、何も書いていない人は、さしあたり寝食を忘れて没頭しているような研究主題が「ない」というふうに解釈してよいからである。研究テーマがないひとに論文は書けない。
私の知り合いにも過去20年ほとんど論文を書いていない人が数名いる。
理由はいろいろである。
一つは若い頃の論文のクオリティが高かったので大学の先生にはなれたのだが、研究の目的が「大学の教師になる」ということに傾きすぎていたために、ポストを得たとたんに人生の目的を失った人である。これはけっこう多い。
もう一つは、ちょっとしたきっかけで渾身の論文の完成に挫折し、周囲の期待が高かったし、本人の自負もあり、中途半端なものではお茶を濁すわけには行かない、というので、ごりごり勉強しているうちに、「眼高手低」になってしまった、というパターンがある。
「眼高手低」というのは「批評眼ばかり肥えてしまったせいで、自分の書いたものの完成度の低さを自分が許せない」という自閉的な傾向のことである。
書いては破り、書いては破りしているうちに、研究主題そのものが時代遅れになってしまったり、同じようなアイディアで誰かが論文を先に発表してしまったり、夫子ご自身がその主題に対する関心を失ったり、という悲しいことが起こるのである。
論文というのは本人にとっても、テーマにとってもその「旬」というものがある。「旬」を逃すと、それっきりなのである。
川成先生は「論文を書かない大学教師」を一括して「バカ」としているが、私はそれはやや不正確ではないかと思う。
彼らは決して知的に劣っているわけではない。むしろ彼らの多くはなかなかすぐれた頭脳の持ち主である。ただし、「自分が思っているほどには頭がよくない」というだけのことなのである。
現に、彼らは他人の業績を批判するときや、学内政治においては、しばしばその卓越した才知を発揮する。
とはいえ、論文の「点数」だけで教員のアクティヴィティは評価できない、というのはたしかに正論である。
例えば、教育活動というようなものは数値化することができない。教育に熱心なあまり、研究活動に支障を来すということもある。(現に私がそうである。)しかし、これは好きでやっていることだから、あまり言い訳にはならない。
また論文の「点数」だけを評価の基準にとり、その「クオリティ」を問わないのはおかしい、というのも正論である。
ただし、「クオリティの査定」はなかなかむずかしい。
私は論文の点数の多い教員であるが、そのクオリティは「低い」(とほほ)とされている。
クオリティの査定基準は「厳しいレフェリングのある国際的な学術誌」への投稿と、他論文での「引用回数」である。
私は同時代の日本人読者にむけて発信しているので、日本語で書くわけであるから、当然「国際的な学術誌」には載らない。
「レフェリング」のある学術誌では(私自身がレフェリングに参加している場合を除き)ほぼ一貫して「あなたの研究は評価になじまない」という悲しい査定をされてきた。
他論文への引用は、そもそも人目に触れるような媒体に書かないのだから、「ない」と言って過言でない。(たまに平川君やジロー君が引用してくれるけど、彼らは「身内」だからなあ)
だからといって私の論文のクオリティが「低い」(とほほ)と断定するのは、いかがなものか。
オリジナルな研究というのは、なかなか既存の評価枠組みになじまないものなのである。だが、これも言い訳めくので黙っていよう。(ぶつぶつ)
ま、それはさておき。
論文の(質にはとりあえず目をつぶり)点数だけで数えて、論文を書かない大学教授は辞めてもらおう、という川成先生の提案に私は原則的に賛成である。
それは、(ここは川成先生の意見とは違うところだが)どんなものでも論文を書けばその人の「頭の中身」は天下の人の知るところとなるからである。
定期的に「頭の中身」を満天下に明かして、批判の矢玉に身をさらすのは、学者の責務であると私は思う。
学術論文の執筆ということの意味を大学人の多くは勘違いしているように私は思う。
あれは「賢さを示す」ためのものではなく「バカ度を公開する」ためのものなのである。
論文を書かない人はよろしくないと私が言うのは、彼らが「賢くない」からではなく、「バカ度を公開しない」からである。
教育サービスとしての大学教育で、「それぞれの教師の言うことの真実含有率」をできるだけあきらかにしておくのはたいへんに大切なことである、と私は思う。
「ただのバカなんだか『大いなる暗闇』なんだか判別できない」ようなパフォーマンスをする教師は学生を混乱させるだけで、教育上あまりよろしくない。「ただのバカ教師」と分かった上でじっくり観察するならば、それはそれなりに学ぶものもあるのである。
私はここで本学の全教員に率先して、あえて捨て石となって、学生諸君のために情報公開に踏み切ろうと思う。
私の話に含まれている真実含有率はアイリッシュ・ウイスキーのアルコール含有率よりは少なく、ビールのアルコール含有率よりは高いです。(メイビー)
なお、著者の川成先生は「略歴」の最後に「趣味・合気道、杖道」と書いておられた。これは本文の内容とは全然関係ないのであるが、あえてこう記したのは本書を読んで怒り狂った大学教師たち(法政大学の同僚などはとくに危険と思われる)からのフィジカルな攻撃に対して、予防線を張ったものと推察される。
私もこれからは川成先生にならって論争的なテクストの巻末には「合気道・杖道・居合道など武道百般を究める。休日には自宅縁側で愛刀呉服山則利の手入れに余念がない。『ふふふ、こいつも最近は血を吸っていないので、夜泣きしてますよ』」などというコメントを書き加えておこうかと思う。