9月21日

2000-09-21 jeudi

フジイ君のことを「たれぱんだ」状態と形容したら、ご本人から抗議のメールがきた。
「フジイです。たれぱんだちゃいます。ぶりぶり。奴らは好んでたれているのです。フジイの生活態度を表現するなら『彼女は前のめりに倒れた。そしてそのまま寝てしまった』が適切です。志は高く。」
ごめんね。フジイ君、君の志の高さへの配慮が足りなくて。

暑さ寒さも彼岸まで、というがまだ暑い。ベランダで洗濯物を干していたら背中が灼ける。今年は異常気象のようである。あるいは地球温暖化が進行して、北極海の氷が溶けだしているのかも知れない。
どうせなら地球寒冷化が進行してばりばりに凍り付くよりは、温暖化が進行して、「全世界バリ島状態」というようなものになって、全人類ふやけてゆくとういのが滅びのプロセスとしては快適な気もする。水位が上がってそこらじゅう水びたしの「ウォーター・ワールド」状態(あるいは椎名誠、『武装島田倉庫』状態)というのも、全地球砂漠化よりは気持よさそうである。
その場合は、「えら呼吸」できる人が生き延びて、次代を担ってくれることになる。
ここはやはり、「えら呼吸できる人」を早急に探し出して(やはりアマゾン河周辺にいるでしょう、これは)、彼らを「未来人」として保護育成し、彼らに人類の文化を後代に伝える任務を託す、というプロジェクトの立ち上げが急務なのではあるまいか。私もかなうことなら「半魚人」となって、世界の海をすらすらすいすいと泳いで余生を過ごしたい。

余生と言えば、私はまもなく知命を迎えるわけであるが、耳順をもって「引退」と心に決めている。
大学の定年は65歳なのであるが、選択定年制というのがあって、60歳になったら退職してもよいのである。
やりたいことがたくさんあって、いまは体力勝負で同時並行にあれこれこなしているけれど、60歳ともなると、それもきつかろうと思う。優先順位の高いものだけ残すということになると、やはり武道と執筆、ということになる。
その場合は、朝から夕方まで机にむかってばりばり仕事をして、夕方からお稽古をして、お風呂で汗を流して、ビールを飲んで、バカ映画を見て、ミステリーを読みつつ寝る、という「至福の夏休み」が以後全期間にわたって展開されるわけである。
「毎日が日曜日」というのはやや切ない語感があるが、「毎日が夏休み」というのは「エンドレス・サマー」とか「オール・サマー・ロング」とか脳天気なビーチボーイズ・サウンドが聴こえてきそうでナイスではありませんか。
問題はそれでご飯が食べられるか、ということだけである。
ビジネス・カフェ・ジャパンの株が店頭公開されて一夜にしてスーパーリッチマンになれば、その問題は解決されるし、『ためらいの倫理学』が100万部売れた場合も同様である。
お金があると、お金を稼がずにすむのでたいへんありがたい。

引退時期を設定しておくと、もう一つよいことがある。
それは「カウントダウン」される時間のかけがえのなさが身にしみて感じられる、ということである。
私たちはつい時間はいくらでもあり、過ちはいくらでも取り返しがつくと思っている。
そのせいで、私たちはつい言わなくてもいいことをいい、しなくてもいいことをして、人を傷つけ、自分を傷つける。
これが、余生あとわずかの人に対しては、人間ずいぶん優しくなれるものである。
そうでしょ? 死の床にいる人間に向かって「おまえさ、生き方変えろよ、いい死に方しねえぞ」とか説教するバカいないでしょ?
残り時間が少ない人間関係においてひとはたいへん他者に寛容になれるのである。
しかるに、この場合の「残り時間が少ない」という「少ない」は実はきわめて主観的な尺度で決められるのである。半年でも「少ない」だし、見方によっては10年だって「少ない」である。
というところで賢明な諸君はもうお分かりだろう。
私は「私とすごす時間はもうあと数えるほどしかないのだよ」ということを執拗にアピールすることを通じて、世間のみなさまから思う存分甘やかして頂きたい、とかように申し上げているのである。
私は若いときは「若いときくらい、好きなことさせてくれよ」といって好きなことをし、年を取ったら「もうすぐ死ぬんだから、好きなことさせてくれよ」といって好きなことをする、という、たいへん自分本位な生き方をしてきているのであるが、これに周囲の人々がなんとなく納得してしまうのが大笑いである。
だが、これは決して冗談で申し上げているのではない。

うちの親子はあと半年で「解散」である。18歳の春を期して、娘は私の知らない世界へ旅立つ。あとは22歳まで仕送りをして、それで親としての私の仕事はぜんぶ終わりである。娘の荷物は22歳までにすべて送り出し、私は方丈の草庵に移り住む。
というわけで私たちはいま「カウントダウン」を過ごしているわけであるが、この次第に少なくなってゆく、ともに過ごす日々のかけがえのなさ、というのは、いわく言い難く滋味深いものである。
私は残り半年を期して、「文句を言うのを止めた」。
もう朝寝坊しようが、夜更かししようが、夜中にギターをかき鳴らそうが、すべてにこやかに「赦す」ことにしたのである。
半年しかない親子の時間である。説教やふくれっ面や気まずい沈黙のようなものをそこに入り込ませたくない。
そう決めたら、あら不思議、これまで「むかっ」ときた娘の不行跡(というほどでもないが)がまったく気にならなくなったのである。それどころか「ふふ、ほほえましいぜ」というふうな余裕さえ私にはある。
学校のある日に午頃起きてきて、ぼわっとしている娘に、にこやかに「おはよう、朝御飯たべる?」と笑いかけることの心の温かさ。さすがの娘も気持ち悪がってばたばたと学校へ行ってしまったが。
先方も私がどうやら絶対に文句を言わないことにした、ということにうすうす気づいたようで、不思議なことに、ずいぶん対応が優しく丁寧になってきた。
というわけで、いま内田家は、かつてなく静かな、笑い声と優しい言葉が行き交う「TVのホームドラマの理想の家庭」のようなものになりつつある。
「カウントダウンの効用」かくのごとし。