9月19日

2000-09-19 mardi

人間の身体はたいへんに順応性が高く、とくに睡眠時間については、その傾向が強い。毎日6時間しか寝ないひとは、6時間で十分寝足りており、逆に一日10時間寝ないと寝た気にならないひとというのもいる。私は最近、11時半就寝、9時半起床という、一日10時間睡眠のひとである。
たくさん寝る点のよいことは、あまりお酒を飲まないですむということである。(私は夕食の準備中から飲み始めるので、夕食が早くて、寝るのが遅いと、うっかりすると5時間くらい飲み続け、ということがある。)
たくさん寝る点の悪いところは、一日がすごく短い、ということである。昨日も、起きてから、朝御飯を食べて、掃除をして、洗濯をして、郵便物の整理をして、『猩々』と『巴』のおさらいをして、ふと時計をみたら、もう3時だった。レヴィナスの原稿を一行もかかないうちに、次のお稽古の時間が迫っている。なんだか悲しい。
しかたがないので行きの車の中で、論文の続きを考える。しかし、やはり、ある程度以上複雑な論理の流れは、紙に書かないと構成できない。紙に書くか、あるいは誰かを相手に話すか、どちらかでないとダメである。
沈思黙考しているひとというのは、考え深げに見えるが、実はあまり何も考えていないで、思考が同じところをぐるぐる回っているだけのことが多い。
反対に、ぺらぺらしゃべっている人は、考えが浅げに見えるが、実は「自分がそんなことを考えているとは、思いもしなかったこと」を口にしつつ、前人未踏の思考の極北へ踏み込んでいることがある。(そうでない場合もある)
私が知る限り、「非常に賢い人」は例外なく「やたらにおしゃべり」であった。寡黙であるが、口を開けば珠玉の至言、というような人に私はまだ会ったことがない。
だいたい「本を書く」というようなこと自体「おしゃべり」の証拠である。
「おいら、言いたいことがあるんだよ。ね、聞いて、聞いて」というような切迫した「おしゃべり衝動」抜きに本など書けない。
ニーチェなんか最後には「私はなぜかくも賢いのか?」などいう題名で書いたほどである。これはある意味で「究極の題名」であって、要するに、もの書く人はみな結局はそう言っているのである。
ニーチェの不謹慎を嗤う人がいるが、私はそれは間違っていると思う。
この題名の不思議さは、これほどまでに賢いはずの人が、不特定多数のひとの「認知」を得ないと、どうしても「自分が賢い」ということを納得できなかった、という点にある。
「私はなぜかくも賢いのか?」と問わずにはいられないということは、凡庸なる読者に承認されなくては、ニーチェが自分の天才について確信が持てなかったということを意味している。
その他者への訴求と依存の切実さにおいて、黙って「おれは天才だかんね、ふふふ」と思っているひとより、じたばたしているニーチェの方が私は好きである。
名探偵オーギュスト・デュパンにしたって、相手の思考の流れを黙って全部読み当てておきながら、最後には「ねえ、ねえ知ってる。ぼくさ、君が何考えているか、全部分かっちゃったよ。すごいだろ。へへ」とネタばらしをして、相手のスタンディング・オベーションを要求している。
ホームズの「ははは、ワトソン君、まだ分からないのかね?」も同類である。ホームズがワトソン君を必要としているのは、ワトソン君の「ホームズ、君は天才だよ」の褒め言葉を定期的に服用していいないと、ぜんぜん「やる気」にならないからなのである。
私はすぐれた多くの友人を持っている。だが、その理由が、私が「よいしょのウチダ」と呼ばれるほどに褒め上手だからであることはあまり知られていない。
天才は非天才の絶賛によってぶいぶい元気になり、賢者は凡人の「よいしょ」によって、ますますその叡智に磨きを掛けるのである。
これを人類への貢献といわずして何と言いましょう。