9月17日

2000-09-17 dimanche

ホームページが私の知らないあいだにすごく美しくなっている。芸術監督のフジイ君が、夜中にこびとさんとなって、ちゃかちゃかつくってくれたのである。ありがたい。もつべきものは「師匠の仕事を軽減してくれる弟子」である。(おお、弟子諸君全員青ざめているね。ふふ。ひとつフジイ君をロールモデルとして弟子の諸君にもがんばってもらいたいものであることよ。)

『ためらいの倫理学』(仮題)はその後、鈴木晶先生が「帯文」のご執筆をご快諾いただき、さらに山本浩二画伯が『現代思想のパフォーマンス』にひきつづき装幀をご担当いただくことをご快諾。最強の布陣で出版にむけて着々と準備が進行中。11月中には店頭に並ぶことになるはず。また買って下さいね。
鈴木先生とは冬弓舎のホームページで往復書簡の連載を始める企画が進行中。「サイバー清談」(あるいは「インターネット宴会」)というようなものになるらしい。(楽しみだ)

日本一過激な医師、北之園先生からメールが来た。
非常に興味深い内容ですのでここに転載します。これは「引用」だから、コピーライトはいいよね?

「医師の役割はとかくただ治療行為によって心身の状態の異常な状態を正常化することにあると考えられがちであるけれども、そのことも実はあるプロセスと飛躍の省略された形であることを見失ってはならない。
では何が抜け落ちているのか。
患者は病院にくるとき単におまかせで自動的に症状を消去されることを機械的に望んでいるのではない。心身の異常な状態とは、ただ異常なのではなく自分自身で対処できない異常さということである。そうした危機的状況とはそれまでの自己修復可能なストーリーでは対処できないという意味で危機なのである。つまりそれまでの有効であったストーリーの破綻した状況からその修復を求めているのである。
しかしそれは正確に言えば修復ではなく、別のストーリー、それもその中にそれまでのストーリーの破綻を繰り込んだ新しいストーリーの新設を望んでいるのである。
生体はある環境では恒常性を維持できるが故に生体でありうる。それはその環境と自身を包摂した調節機構を内にストーリーとして保持していることを意味する。自身の対象化により自身が調節者としての役割も果たしている。ストーリーはその調節マニュアルともいえる。
しかし未知の事態がそれまでの環境を変動させたり、未知のうちに進行した自身の変化はその安定体系をうち破る、つまりそれまでの自分自身ではどうにもこうにもいかなくなったとき、病院の医師に受診するのである。 もっともそうした受診経験がストーリー化されたとき、病院は単に薬剤をもらったり、処置をされるだけのものになってしまうかもしれないが、それは既成の枠をみているだけのことにすぎない。
初めて医師に罹ったとき、それまでの経過を問診しながら病歴が形成される。病歴は単に時間を追ったそれまでの患者の症状や体験の集積ではなく、また医師の観点からの疾患に至るストーリーの形成でもない。これは対話によってそれまでの患者のストーリーを検証し、欠落点や誤謬を指摘し、解体し、新たな要素を付け足し、新たな解釈で新たな意味を付け直し、そうして再構成あるいは新設する共同のシナリオ制作なのである。これができたとき、同時に診察された患者の現在の症状や状態に診断というラベルが貼付される。合理的にも非合理的にも、また納得的にも非納得的にもストーリーと現在の状態がプロセスとして説明されて、そこから今後の対処法つまり治療方針が提示されるのであるが、その内容は新たなストーリーの延長上にあるのは当然である。薬剤も処置もそうした治療方法のほんの一角を構成する物でしかないことも言うまでもない。
このとき患者は医師と作ったストーリーを受け入れることで、実は再度自身に対する調節者の地位を取り戻し、自身が自身の医師に復権しようとしているのである。それも以前よりも一段水準の高い、あるいは地平の広がった立場である。この新たなストーリーを承認し、それを自身のものとして採用し、操作調節マニュアルに取り入れることは、ストーリーを拡大させるだけでなく、立体的にみればそこに医師を取り込み、自分が医師になることだから、与えられた薬剤を使用もできるし、提示された処置をも受けられるのである。つまり病院の医師を受け入れるとは自分がその立場に立っているという一瞬の転位も意味しているのである。
これを医師の立場からいえば、患者に対して医師は自分をストーリーと共に分与しているのである。対処法がわかれば患者は特別に医師を必要とせずに自分で投薬なり処置なり自律的にできるはずである。自分ができなくても家族にしてもらえるはずである。しかし現実には「資格」「設備・機械・道具」「材料・薬剤」などを独占していることで医師は自分の社会的地位・役割を維持しているだけのことである。実質的には、その「医学的専門知識」とその「適応法」を一度患者に付与してしまえば、もう医師は必要ないことになってしまう。
それが代償交換として診察料を受け取ることの本当の根拠であるのは、単に付与するのではなく、新たな医師ソフトを患者の内にコピーしセットアップして、可動状態のストーリーとして機能開始させるることで説得力を持つものなのだ。そして実はこのとき医師はさらに別の立場にシフトしているのである。
しかしながらこの一連のプロセスに無自覚な医師がそして患者が急増している。患者は無意識でもまだ救済されうるが、医師がそうであるとき患者は不全な扱いを受けたために治療を十全に受けたことにならず、もちろん治療は完了もせず、症状が偶然改善したとしても、そうでなければなおさら不満を増大させることとなる。ここで起こっている事態は自分が自分の調節者としての立場に戻ることができなかったこと、つまり新しいストーリーを作りえなかったことなのである。
治癒するも治癒しないも実はそれほど大きな問題ではない。
常に治療可能な疾患もそうでない疾患もあるのが現実であり、治療方法がないものほどストーリーが必要であるのだ。医師は匙を投げてはならないのはあらゆる意味で当然である。
しかし現実は進行している。新しい別次元の医師・病院ストーリーが既に作られてしまっている。病院に行っても、待たされるだけ待たされて、ろくでもない医師のいいかげんな診察を手短に受けられるだけで、訳の分からない検査を受けさせられ、やたら大量の薬剤を投与されるか、リスクの高い手術や処置をされるだけ、へたをすると長期に入院させられ、ミスや事故にもあうことがあり、時には命をおとすこともある、だから病院には近寄りたくない、でも我慢できないときは、少しでもましな医師、病院を探しまわって、何軒か訪ね歩くことにならざるをえない・・・生まれてから死ぬまで医療で損なわれ続けるのだと。
恐らく医師や厚生省、保健所のおめでたいコマーシャルを鵜呑みにしている従順な人間は年々減少してずいぶんと少なくなってしまっただろう。そういう人は幸せかもしれない。しかし砂上の楼閣はいつ崩れ去っても不思議でない。医療ミスは頻発している。そしてまともな対策はとられていない。いつ巻き込まれるか、交通事故と同様、いやもっと恐ろしいものであるだろう。」

フロイトが転移について語ったことは、それ以外の医療の領域においてもひとしく有効である、というのがドクター北之園のご意見のようでした。ラカンはバカ映画の解釈のみならず医療の現場でも実効的であるようです。