9月12日

2000-09-12 mardi

おお、暑い。この研究室は地獄だわ。室温30度、湿度100%。つねに外気温より数度高い。
いったいどういう設計になっているのか、夏は炎熱地獄、冬は寒冷地獄の部屋である。他の部屋もそうなのかしら。夏の間は、研究室のドアをあけた瞬間の「むわ」を想像しただけで、研究室へいく気が失せる。
台風が来ていて大雨警報でこどもの学校がお休みなのだが、その雨の中をずぶぬれになって学校に来る。会議と英語の特訓である。
英語の特訓というのは、大学院入試のために受験生たちに英語を教えているのである。
なんで私が英語の特訓をしているか、というと長い話になるのだが、志望校の「過去問」の英語を受験生たちはそれぞれ自分でやってきて、私のところに「これでいいのでしょうか?」と訊ねに来る。最初はひとりずつに赤ペンで添削をしてあげていたのであるが、そのうち人数がどんどんふえてきて、英語の添削だけでたまの休日が一日潰れるというような事態となり、もうめんどうだからまとめて「授業形態」でやります、ということになったのである。
大学4年生の中にはうっかりすると2年間英語を見たことがない、というような豪の者がいる。その人たちに英語を訳させると「あっ」と叫んで絶句するようなものすごいものができあがってくる。これを世間に出すのはちょっと恥ずかしいので、「どろなわ」と言われようと、なんと言われようと、やらないよりはましである。
私はほんとは英語なんか分からないのであるが、このところずっと英語のレヴィナス研究書ばかり読んでいたのと、竹信君から『英字新聞がどんどん読めるようになる』という本も贈っていただいたので、大丈夫なのである。

小田嶋隆の『ひとはなぜ学歴にこだわるのか』を読む。
学歴というのは珍しいテーマである。なぜ、ひとは学歴にこだわりながら、そのことを否定するのか、というややこしい問いを扱っている。
一般的に言えることは、学歴は「それをもつものにとっては無徴候的であり」、「それを欠いているものにとっては徴候的である」ということである。そして、メディアで発言している人間は圧倒的に高学歴者なので、学歴による差別は前景化しないのである。しかし学歴は小田嶋のいうように、現代日本社会で、たしかにおそらくもっとも強力な社会的な差別化指標記号であるだろう。
私は知らなかったが、スマップの番組で中居君が「シンゴ君は中卒だから」という発言をしたあと、テロップで「ただいま番組中で不適切な発言がありました」というお詫びがはいったそうである。「中卒」は差別用語だったのだ。誰がそんなことを認定したのであろう。フジテレビの局員がそんなことを決定してよいのだろうか。
サッチー・バッシングの最大の原因は「コロンビア大学卒」という学歴詐称に対するものである、と小田嶋は分析している。あの傲慢なくちぶりや、無知や、礼儀知らずを、視聴者たちはすべて「若いときにアメリカで学んだようなひとは、やはり違う」というふうに正当化し、泣く泣く受け容れてきたのである。そのような精神的拷問を自分に課して、それに耐えてきたことがまったく無駄な努力であったことを知って、人々は逆上しているのである。ひとびとが怒っているのは、サッチーに対してではなく、このような程度の低い人間に、詐称された学歴だけで恐れ入って、何となく気後れしていた自分自身の卑屈さに対してやり場のない怒りを感じているのである。という小田嶋の分析を私は正しいと思う。
私自身は高学歴のひとなので、学歴それ自体は私にとって差別化指標としてはほとんど機能していない。日比谷高校というところと東京大学というところとその後には「大学の先生たちの業界」というところを巡歴したせいで、「勉強ができる」ということと「頭がいい」ということはまったく別の知的資質である、ということを私は身をもって学習したからである。
確かに「頭がいいひと」のなかには「勉強ができるひと」が多く含まれる。とくに「非常に頭がいい人」はほぼ例外なしに「非常に勉強ができる」。しかし、その反対は真ではない。
そして、「勉強ができて、頭が悪い人間」というものがこの世にもたらす害悪は、それはもう、筆舌に尽くしがたいものなのである。
総じて、人間としていちばんかくありたい姿は「勉強ができなくても、頭のいい人間」である。そう、あなたのことですよ。ラッキー。(で、あと「勉強ができなくて、頭も悪い人間」というのが残っているんですけど、これについては、考えるだけで頭痛がしてくるので、話題にしなくていいですか?)