9月7日

2000-09-07 jeudi

朝日新聞で高橋源一郎の連載小説が始まった。
『ゴースト』にはちょっとめげたけれど、『あだると』には腹を抱えて笑ったから、こんどは期待。出だしはわりと好調である。
さっきまでトイレの「置き本」に『タカハシさんの生活と意見』を置いていた。竹信君から『英字新聞がどんどん読めるようになる』を送ってもらったので、昨日からそれも持ち込んでいる。この二冊をならべたら、おお、これは異な。高橋源一郎と竹信悦夫のご両人は灘校からの旧友同士なのでありました。私の家のトイレで旧友再会である。

高橋さんの『虹の彼方に』(だったかな?)には「竹信悦夫」君が登場する。(小説に実名で登場する、というのは羨ましい限りである。)
アサヒ・イブニング・ニュースのデスクを竹信君がしているときには、高橋君は『こんな日本でよかったら』を連載していた。仲良きことは美しき哉。

ジョン・ウオーターズの『悪趣味映画作法』(柳下毅一郎訳)を読む。
冒頭の一節がすてきだ。

「ぼくにとって、悪趣味こそがエンターテイメントだ。ぼくの映画をみてゲロを吐く人がいたら、スタンディング・オベーションを受けたも同然だ。だけど、忘れちゃならない。いい悪趣味と悪い悪趣味は別物なのだ。人を不愉快にさせるなんて簡単だ。九十分間手足がばたばた切り落とされる映画を作ればいいが、そんなものは悪い悪趣味だし、スタイルも独創性もない。悪趣味を理解できるのは、いい趣味の持ち主だけだ。いい悪趣味は創造的におぞましく、なおかつ、特別にひねくれたユーモアの持ち主に受けなければならない。きわめて特殊なものなのだ。」

「ぼくは自分の映画に社会的に有用な価値がひとつもないのが自慢だ」という「ゲロの王子」(Prince of Puke) 「ゴミの教皇」(Pope of trash) の言やよし。
そのまま最後まで一気に読んでしまった。

成島柳北の『讀賣雑譚集』を読む。おや、ジョン・ウオーターズ先生のことが書いてあるぞ。

「世人皆風流風流と唱へ、此こそ風流なれ、彼は不風流なりと互に相争ふ。漁史試みに問はん、風流てふものは、何を以て主義となすかと。」

漁史柳北先生、風流人を称する四つのタイプを挙げる。その一が「悪趣味」のひと。

「世間、多くの風流人有り。其の一は、美服美食を以て俗となし、華屋高堂を以て凡となし、破帽垢衣して、故さらに灑掃せざるの室内に坐し、蚤虱と相した親しみ、欠けたる皿、剥げたる椀に飲食し、分からぬ語を吐き、つまらぬ句を綴りて、自ら風流なりと誇る者有り。これ不潔を以て風流の主義と為す者なり。」

その他、「奇才子を気取る者」「人間普通の事物を嫌ひ、人の好まざるを好む者」「奢侈を以て風流と為す者」などが漁史先生のまな板に乗せられる。

「此の四つの者は、此を真の風流人と称す可きか。漁史は失敬ながら、之を不風流と断定するの外無き也。」

おやおや、「世界一不潔な」映画を作り、良識を逆なでするウォーターズ先生は「不風流」(Bad bad taste)になってしまうのかしら。でも漁史先生、ちゃんとフィニッシュは決めている。

「然からば即ち、風流の主義は果たして何物ぞ。曰く、自由は即ち風流の主義なり。風流は自由より生ず。」

明治15年に『ピンク・フラミンゴ』を見たら、果たして成島柳北先生は笑い転げて『朝野新聞』に「天下の奇観」と評したであろうか。なんとなく好意的な批評をしそうな気がする。柳北先生も骨の髄まで「イカさん」だからね。

ビジネス・カフェ・ジャパンからメンバーズオンリーのインキュベーション・ビジネス情報誌が送られてくるので早速読む。
おや、平川克美君が書いている。中にすごくすてきな文章があった。ちょっと長いけど引用するぞ。

「自ら起業するといことにはきわめて個人的なモチベーションが含まれている。それは、誰かに命令されたくない、何かに帰属したくない、という内的なモチベーションである。(…) 言い方を換えるなら、アントレプレナーとは、『大きなプール付きの家』や『最新のスポーツカー』や『札束』を手中にしたいという欲求が生み出す人ではなく(かれらは有能な会社員の素質をもっている)、むしろ何かをしたくない人、つまり何かに帰属したくないというネガティヴな欲求によって駆動された人々であるということを知っておく必要がある。(…) ここでの結論は、アントレプレナーとは、他人によって自らのプランを干渉されたくない人であり、最もインキュベーションされたくないタイプの人間であるということである。インキュベーション事業の一つの難しさは、最もインキュベーションされたくない人々をインキュベーションの対象とするということの中にある。」

この逆説は実に的確に事態の本質を捉えている。
投資先としてもっとも有望なヴェンチャー・ビジネスマンは「金なんていらねえよ、おれのことはほっといてくれよ」というタイプのアントレプレナーなのである。
さすが生き馬の眼を抜くシリコンバレーで大活躍しているだけあって、平川君の分析は冴え渡っている。
「何かをしたくない」「なんだか知らないけど、やなものはや」という微妙な感覚のあり方をフランス語では「se revolter」と言う。昨日書いた漱石先生や百間先生の「やだもん」とその本質は同一である。この「何かをしたくない」という抵抗感の名詞形が「revolte」で、これを軸にして思想体系を構築しようと試みたのがアルベール・カミュなのである。
「反抗」なんていう浪漫的な訳語をつけたので、みんな勘違いしているのだが、これは要するに「おれは、やだよ。え? 理由なんかねえよ、やなもんはやなの」主義のことなのである。
さすがにこの考想の真の思想的射程の深さを理解した人間は当時のフランスの知的サークルの中にはひとりもいなかった。まあ、当たり前といえば当たり前だけど。
そういうわけなので、あれから40年、インキュベーション・ビジネス誌の記事についに同時代に理解者を得ることのできなかった『反抗的人間』の主題が朗々と語られるのを聴いて、私は感動を禁じ得なかったのであります。涙。