9月6日

2000-09-06 mercredi

うーむ困った。困じ果てた。
「レヴィナスとフェミニズム」と題した章が終わらないのである。すでに80枚を越したが、ようやく本題にはいったところである。これでは、イリガライ批判だけで100頁になってしまう。
このあと、さらにデリダ批判という大物が控えている。この相手のガードの堅さはイリガライの比ではない。デリダの論を攻略するとなると、その外堀を埋めるための土を山から掘り出すためのシャベルを購入するためにローソンでバイトをするところくらいから始めないといけない。だが、「私がローソンでバイトしている話」は読者には少しも面白くない、というのが難点である。
ああ、困った。
しかし、イリガライのレヴィナス批判は読めば読むほどめちゃくちゃである。
このような杜撰な批判が「定説」として罷り通り、「力強く、魅力的な批判」(@コリン・デイヴィス)とありがたがられるというのは、いったいどういうことなのであろう。(もちろんデイヴィスも「口先だけのお追従」を言っているにすぎない。それでも「お追従」を言わないと世間が許さないのである。)
おそらく英米圏の思想研究におけるフェミニズムの圧制は私たちの想像を上回るものなのであろう。
レヴィナスのような「フェミニズム? なんですか、それ?」と一言のもとに否定してしまう思想家(そんな剛胆な人はレヴィナスくらいしかいない)に対するフェミニストからの十字砲火に対して、あえて火の粉をかぶってもレヴィナス先生を擁護しようとするような奇特な研究者は絶無である。
しかし、ある思想的立場が「満場一致」で支持される、というのは健全ではない。
この風景は前にどこかで見たことがある。
1950年代のフランスにちょっと似ている。
そのとき、フランスではマルクス主義に反対することはほとんどそのまま「知識人としての死」を意味していた。思想史を徴する限り、あえてこのリスクを引き受けて「それでも、マルクス主義はだめ」と言い切ったのは、レイモン・アロンとアルベール・カミュくらいである。その結果、カミュは「村八分」にされ、レイモン・アロンは「右翼」扱いされてしまった。
レヴィ=ストロースとかラカンとか「クレヴァー」な人は、こういうときには何を言ってもバカをみるから、黙っていた。賢明ではあるだろうが、ちょっと、ずるこいのではないか、と私は思う。
支配的イデオロギーに帰依しない言論には「学術的中立性」さえ認められない。
しかし、それほどに支配的であったイデオロギーもいずれ別のもっと「ブランニュー」なイデオロギーにその覇権を譲って消えて行くことになるのは世の常である。諸行無常、盛者必衰。
というわけで、フェミニズムから「父権主義者の権化」と罵られているレヴィナス先生を擁護すべく私はただいま孤立無援の論陣を張っているのである。
話が長くなるのも仕方がない。
村上春樹は、支配的な思考に対して、個人は「イカになる」と「タコになる」かどちらかを選ばなければいけない、と書いている。
「イカ」とは「異化」であり、「ほかの人とは違うようになること」。「タコ」とは「他個」であり、「みんなと同じようにしていること」である。
レヴィナス先生は生涯を通じて「イカさん」であった。
ジャック・デリダがGREPHグループを通じて、学校教育における哲学教育の時間をもっとふやし、学習開始年齢をもっと下げようという提案をしたとき、フランスの哲学者は満場一致でこれを是とした。
レヴィナス先生はそれを一笑に付した。
「こどもは哲学なんか勉強せんでよろし」と先生は断言した。「哲学は大人のやるもんや。こどもは飴でも舐めとき」
なんて憎たらしいおっさんなんだろう。
私はこういうときのレヴィナス先生の「イカさん」ぶりが身が震えるほど好きである。

おまたせしました! コリン・デイヴィス『レヴィナス序説』本日発売!(国文社、¥2800)

これはお薦め。前に書いたように、「立川談志がしゃべっている」ような文体である。
「ま、なんだな、はええ話が」
哲学書がこのようなグルーヴ感のある文体を持つというのは希有のことである。
1200部しか刷ってないので、はやく注文しないとなくなるよ。