9月1日

2000-09-01 vendredi

夏が終わる。
「楽しいことなんて、何もない夏だった」と思わず呟いてしまったが、そんなことをいうと、いっしょに遊んで下さった皆様が「なんだよ、内田、あのときはケラケラ笑ってたくせに」と怒りのお言葉が飛んできそうなので、あわてて撤回する。
しかし「夏の終わり」というのは「ああ、楽しい夏だった」というような肯定的な過去回想にはなじまないのである。朝夕の気温が下がってくると、ふいに悲しくなって、「ああ、何もいいことがないうちに夏が終わってしまった」とつい呟いてしまうものなのである。
この夏、遊んだのは4日間だけ。(キャンプで3日、ごろごろした日が1日)あとは、毎日、机にむかってせっせと原稿を書いていた。
とにかく、よく仕事をした夏でありました。
おかげで、『レヴィナス序説』の翻訳が終わり(9月6日刊行)、武道論も書き上がり、冬弓舎の『ためらいの倫理学』が出来上がり、レヴィナス論も第二章まで進んだ。
レヴィナス論はいまイリガライの悪口を書いている。
書き出したら止まらない。しかし、「レヴィナス論」のつもりで買ったら、イリガライの悪口ばかり50頁も読まされては読者も困るだろう。どこかで止めねば。
第三章ではデリダの悪口を書く予定。これも止まらなくなる可能性がある。第四章ではサルトルの悪口。なんだか、全編「一度でもレヴィナス先生のことを悪く言った人間への仕返し」というような結構である。
しかし、人の悪口を書き出すとたちまちエクリチュールの絶頂に達するというのは、どういう邪悪な性格なのであろう。日頃、物静かな市民を偽装しているせいで抑圧された暴力衝動がここを先途と暴発するのであろうか。
まあ、イリガライやデリダが私の論文を読む可能性は絶無であるので、私が何を書いても本人は傷つかないからよいのである。
日本の研究者の書いたレヴィナス論についても書きたいことはいろいろあるのだが、これはご本人に読まれる確率が非常に高く、読んだご本人がものすごく厭な気分になることは必定であるし、私も学会会場などで会ったときに泡を食って逃げ出すのが面倒くさいので、ぐっと自粛しているのである。

「なにかね、君の書いたものを読まない人の悪口なら書くが、読まれる可能性のある人のことは書かない、というのが君の批評的態度なのかね」
「そうです」
「君の批評精神というのは、そんな程度のものなのか。身体をはってでも自分の意見を通す気概はないのかね」
「ありません。」

私は常日頃、かげで人の悪口は(死ぬほど)言うが、本人には絶対に言わないようにしている。
よく、「かげで言えば悪口だが、面と向かっていうと忠告になる」などと賢しらなことを言う人がいるが、そういうおためごかしを信じてはならない。
私は何度か試みたことがあるが、例外なしに相手は逆上し、社会関係に深刻な影響が出た。耳に痛い忠告を受け入れて、その人がみごとに人格改造を果たしたという例を私は寡聞にして知らない。
人間というのは(おお、すごい主語だ)自分の欠点については「まったく無自覚」と「きわめて自覚的」という二つの態度しかとらない。
たとえば、信じられないほど鈍感な人物は例外なしに自分のことをデリケートだと思っているので、「君、もう少しまわりに配慮したら」というような忠告はまったく的外れの誹謗としか思われないのである。
また、自分の欠点をつねにくよくよ悩んでいる人間にむかってその欠点を指摘することは、(自分がでぶであることを熟知しているけれどダイエットができない人間に「少しは痩せる努力しろよ」というのと同様)「それだけは言ってくれるな」と怒りの火に油を注ぐだけのことなのである。
それゆえ、私は決して人に向かってその欠点を指摘することはしない。かげできっちり悪口を言い、面と向かったときは「よいしょ」に励むのである。
そういう私に文句がある場合、そこで指摘される点は私にとって「まったくのいいがかり」か、「私が誰よりも苦しんでいること」のどちらかであるので、決して面と向かって私を批判してはなりません。文句を言いたい人は「内田のここが嫌い!」協会でもお作りになって、みんなで盛り上がって下さい。(わ、楽しそう。私も参加したいけど、だめか)