8月23日

2000-08-23 mercredi

「人を殺す経験がしたかった」との動機で愛知県で主婦を刺殺した十七歳の少年の精神鑑定書が明らかにされた。
鑑定書は犯行の動機を「殺人犯になってみたいという願いに基づく『殺人のための殺人』、『退屈からの殺人』」と指摘し、今回の殺人が「自己実現を求めた動機なき犯罪、典型的な『純粋殺人』と位置づけ」ているそうである。
なるほどね。
「純粋殺人」というような概念があるかどうか知らないけれど、言葉を作るのは鑑定医の自由である。
しかし、次のはちょっと聞き流せない。

「動機なき犯罪であることを説明する際、鑑定は、文豪カミュやサルトル、ドストエフスキーらに触れ、『彼らによって考えられてきた人間の不条理を示す事態としての犯罪』との考察を試みている。」(『朝日新聞』23日夕刊

待ってよ、ちょっと。
鑑定書の全文を読んでいないで、片言隻語から推察するのはまずいけれど、引用文がもし正しいのであれば、ずいぶん杜撰な文学読解だと言わねばならない。
被疑者の方の弁護士はこれを「科学を装った文学的鑑定」と批判しているそうであるが、「文学的」という言葉をこういうふうにペジョラティフに使うことに対しても私はちょっとかちんと来たぞ。
私はいちおう文学研究でお給料を頂いている身であるので、でたらめな文学読解についても「文学=非科学的妄想」という俗見についても、異議を申し立てる義務がある。しかし、今回は俗見の方はとりあえず見逃してもいい。私の敬愛するアルベール・カミュの名をこういう文脈で出されたことに私はむっとしているのである。

「動機なき殺人」というのは文学史的には非常に有名な概念である。
これはアンドレ・ジッドの『法王庁の抜け穴』のニヒルな主人公ラフカディオ君がローマにゆく列車の中で変なおじさん(名前忘れた)をまったく無動機的に殺す衝撃的なエピソードを論じたときに語られた概念である。
ラフカディオ君がどうして殺人を犯すに至ったのか、読んだ当時、私はさっぱり分からなかった。(今読むと分かるかもしれないけれど、本が手元にない。なんでも棄てるものではないね)
しかし「不条理」という概念の通俗的理解と『異邦人』の海岸での殺人が「無動機的である」という俗見に対してこれまで文学研究の場で異論を唱え続けてきた私としては、「動機なき殺人・・・あ、『異邦人』ね」というような安易な連想を見過ごすことはできない。

「不条理」というのは、カミュ自身の考えによれば、正邪理非善悪の判断を下す超越的・汎通的な審級が存在しないときあってさえ、人はなお「適切に判断しうる」という痛々しい希望のことを言うのである。
カミュは「神」も「歴史の審判力」も信じられないときでさえ、人は正しく判断し、正しく生きうるということ「だけ」を生涯かけて書き続けたきたのである。

この少年はそのような倫理的緊張を生きたのだろうか?
鑑定によればこの少年は「仙人になり不老不死になりたい」という願望と「社会的に成功するという自己実現」の願望を抱いていたが、それが時間と労力がかかって大変そうなので、殺人犯になることを選んだそうである。
ほんとうだとすれば、この少年は「神」を信じており、社会的自己実現が幸福をもたらすと考えていながら、信仰を持って霊的に成長することや社会的な栄達を成就することが「めんどう」だから、「とりあえず人を殺す」という手軽なオプションを選んだことになる。
カミュが批判していたのは、「信仰を持って霊的に成長した」からこれでいいや、とか「社会的に自己実現できた」からこれでいいや、というようなブルジョワ的自己充足のはらんでいる暴力性である。そのような暴力性が閉鎖的で抑圧的な制度を生み出してきたことをカミュは批判したのである。
この殺人者はこの閉鎖的で抑圧的な制度の分泌する価値観(超自然的なものへのあこがれ、物質的栄達への欲望)をすこしも批判しているわけではない。むしろそのような通俗的な価値観にふかく浸かっている。そして、その価値観の枠内でもっとも安直な仕方で自己実現を求めたのである。

この殺人者とカミュの考想のあいだには一点の共通点もない。
どうしてこんな愚劣な少年が生まれたのか、それをぜひ説明したいという鑑定医の野心を私は理解できる。
しかし、説明したいなら自分でもよく理解できるている概念を使ってやってほしい。
「不条理」というようなよく知らない概念を使うべきではないし、カミュやサルトルやドストエフスキーの名をこのような愚劣な存在の合理化のために動員するのはぜひ自制して頂きたいと思う。