8月24日

2000-08-24 jeudi

ショシャーナ・フェルマン『女が読むとき、女が書くとき』を読む。
フェルマンさんは私が尊敬する数少ないフェミニスト理論家である。
「レヴィナスとフェミニズム」という章を書くので、レヴィナスのテクスト理論とフェミニストのテクスト理論がどう違うのかを照合するために読んでいる。
フェルマンさんはこう書いている。

これまで私たちが読まされてきたすべてのテクストは、男性の書き手、男性の主人公、男性の読者という三重の拘束によって、男性中心的に編成されてきた。だから、「書く」人は(それが男であろうと女であろうと)否応なしに男性中心主義的なエクリチュールを採用することを強いられており、「読む」人は男性中心主義的な読みの技法の習熟を強いられてきている。

なるほど。
では問題。
その場合、どうやって脱-男性中心主義的な読みというものが成り立つのであろうか?
フェルマンさんはこう問うている。

「『我々の内に埋めこまれている男性的精神を追い払う』ことが必要であることは私も認めているし、この主張を推奨したいとも思っている。しかし、そうは言っても、私たち自身、男性的な精神をすでに内包していて、社会に送り出されるときには、知らず知らずのうちに『男として読む』ようにと訓練されてしまっているのではあるまいか? テクストを支配しているのは男性主人公なので、その男性中心的な見方に自己を同一化するようと、私たちは訓練されて来た。男性主人公の見解が、世界全体を見る基準であると、私たちは思いこまされて来たのである。こんな状態で、男性的精神を追い払えと言われても、一体どこから追い出せというのだろうか?」

おっしゃるとおり。
子どもの時から男性中心的なエクリチュールの中で生き、そのエクリチュールによって自分の経験を解釈し、自分の内面を言語化することに慣れきった女性は、あらためてどのようにして「女として」読むことを実践できるのだろう?
この困難な問いに、フェルマンさんはきわめて適切な回答を与えている。
それは「テクストを読む」という行為そのものに内在する「危険」に有り金を賭けろ、というものである。
ふつう私たちはテクストを読むとき、「自分が読みたいもの」だけを読んでいる。
怠慢な読み手である私たちは、意味の分からないところは読み飛ばし、自分の手持ちの知性的・感性的枠組みで理解・共感できるものだけを拾い読みし、それで終わりにして本を閉じることができる。
しかし、本を閉じたあとも、「意味の分からないところを読み飛ばした」ことへの「疚しさ」はかすかな痛みとして残る。
なぜ私はある言葉、あるパラグラフを「読み飛ばし」、ある思考に対して目を閉じたのか?
フェルマンさんはこの「選択的な無知」を「抵抗」と呼ぶ。

「読むという行為は、テクスト内に自分が期待していなかったことを見出してしまうという危険をともなう行為であり、読者としてはその危険に抵抗せずにはいられないのである。(…) 自分自身のイデオロギーや先入観に固執するあまり(その人が狂信的愛国主義者であろうと、フェミニストであろうと)読むことにたいして抵抗するということは、どんな場合でも起こり得る。」

さすが、フェルマンさん、賢い。
フェルマンさんは自分がテクストを読むときに、二重のイデオロギー的装置が読みに対して「抵抗」として機能することに気づいている。
一つは先に述べたように、彼女自身が慣れ親しみ、それなしには読み書きすることができないまでになった男性中心主義的な語法である。
今一つは、そのような男性中心主義的言語運用は「ダメだ」から、女は女固有の言語運用でいきましょうというイリガライのようなイデオロギーである。
第一のイデオロギー的装置は彼女が読むものが男性中心主義的であることを隠蔽する。というのは彼女はそのときだけ擬制的に男性読者になっているわけだから、テクストが男性中心主義的なエクリチュールであってもぜんぜん気がつかないのである。(それは『ドラゴン怒りの鉄拳』を見ている私たちが擬制的にブルース・リーに同一化しているせいで、日本人ががんがん殺されて行くのを見てもまったく不快感を感じないのと似ている。)
第二の「フェミニスト」的イデオロギー装置は、彼女が「読むもの」に含まれる男性中心主義的なファクターを「暴露する」ことはできるが、読みつつある彼女自身を通して機能している男性中心主義的なシステムそのものを前景化させることができない。
いまさら言うまでもなく、システムに含まれているはずの主体が、システムの外に立つ客観的視座というものを仮説的に立てて、そこから議論を始めるというのは「論点先取」といってアリストテレス以来「やってはだめよ」ということになっている。
頭の悪いフェミニスト(イリガライとか)がしているように、「私は女だから男性中心主義的なシステムをシステム外から批判できる」という不当前提を立てると、「男性中心主義的」なシステムが男女を問わずあらゆる人々を無意識的に拘束しているという最初の前提そのものが崩れてしまう。
そもそも、そんなに簡単に意識化され、批判され得るようなシステムであれば、それは「システム」と呼ぶ価値さえないだろう。
つまり、容易に批判できた(つもりになっている)システムについては、誰も真剣にその構造や機能を考察しないようになるので、結果的に、そのシステムはいつまでも無傷で繁栄し続けるのである。
フェルマンさんはこのへんの難しさをよく分かっていらっしゃる。
だから、理想的な仕方でフェミニスト的な読み手とは、自分が読む「テクストの中」に男性中心主義的なファクターを「発見」する人ではなく、読みつつある「自分の中」で男性中心主義的な読みの装置が作動していることに気づく人である、という屈折した結論が導かれることになるのである。
あれ? じゃ、私はフェミニストなのか。