8月4日

2000-08-04 vendredi

鈴木晶先生のHP電悩日記に「神戸で内田樹先生に会う」の巻がアップロードされていた。
自分のことを書かれるのを読むのは、身も細るというか、身の置き所のない経験だが、その中で鈴木先生が「内田先生は『自分の頭でものを考える人』である」と書いて下さったのと、これから「ブレークする」という予言をして頂いたのに感激。嬉しいお言葉である。
「ブレーク」というのはどういうふうなことなのであろうか。
その昔レヴィナス先生の『タルムード四講話』の翻訳が「朝日読売毎日」三大紙書評欄制覇という偉業をなしとげたとき、「おお、これで私もメジャー入りか」と錯覚したことがあったけれど、あれは「レヴィナス先生」のご高名ゆえであって、別に私が偉いわけではない。
しかし、その余沢で、いくつかの書評紙や雑誌から寄稿を頼まれるようになった。ところが、これが「一回書くと、次の注文が来ない」のである。
私の文章は、ご存じのとおり、ひらかなが多く、改行が多い。白すぎて、紙面に「ぽっかり」穴が空いたようになってヴィジュアル的に具合が悪かったのかもしれない。
『現代思想』とかそういうメディアには私のような「サルにも分かる」書き方は好まれないのかもしれない。
それに聖書の引用で一回致命的な変換ミスをしたことがある。「私は塵であり、灰である」というところを「私は地理であり、灰である」とやってしまったのである。気がつかなかった私も悪いが、編集者も不注意だよね。いずれにせよ読者からはバカだと思われたに違いない。
ともかく、業界メジャー誌からの原稿依頼は1995年頃を境にして、ぱたりと絶えた。(マイナー誌からも、もちろん、ない。)
しかたがないのでHPで「健筆」をふるっている。
誰からも原稿依頼がないなら、自分で自分に原稿依頼をする、という自力更正のスタンスは、「誰も雇ってくれなかったので、自分で会社をつくった」25歳のときから変わることのない、私の基本姿勢である。
しかし、ここにきて、畏友松下正己、難波江和英のご両人が相次いで「本出すから、内田君も何か書きなさい」と私にオッファーしてくれた。私は紀要に書いてそのまま誰にも読まれぬまま退蔵されていた映画論の旧稿と、3年前の「フランス文化論」の講義ノートをぴぴっと直して「はい、原稿できました」と渡しただけ。編集者との交渉とかビジネスマネジメントは全部「畏友」の担当である。実にらくちんな仕事であったが、おかげで本が二冊出た。
そこに今度、冬弓舎の内浦さんという奇特なエディターさまが私のHPをふと訪れて、いかなる気の迷いか、バカエッセイを単行本にして出しましょうという話が降って来た。(ありがたいことである。合掌。)
これも「ありもの」の原稿のコンピレーションである。
いま、初校を直しているところなのであるが、本の題名が決まらない。
『Simple man, simple dream』というのがもとの題名なのであるが、これでは何の本だか分からない。内容は内浦さんが、私のHPに散乱する2メガバイトのゴミテクストの砂漠から拾い上げたジェンダー論、戦争論、ポストモダン批判、などの微量の商品化可能テクストである。
『私もいろいろ考えた』では誰も買ってくれそうもないしね。
この本をきっかけに鈴木先生の予言する「ブレーク」が始まるはずなので、題名にはちょっと凝ってみたい。
アイディアのある人はメール下さい。採用者にはできた本を一部贈呈します。

日本水連を提訴していた千葉すず選手に対してCASの裁定が下った。
この件について、私は事情をよく知らないけれど、報道が圧倒的に「千葉すず」支持であることはよく分かった。
今日の朝日新聞だと、千葉すずの涙をこらえる表情のアップが一面。涙眼にフォーカスを合わせて、顔半分はソフト・フォーカスというCMフォトみたいな仕上がりである。いっぽう、水連の古橋広之進会長はスポーツ面中央で、眉をしかめ、前歯をむき出して噛みつきそうな渋面をつくっている。
報道を徴するかぎり、私も千葉すず選手に同情的であるが、何もここまで差別することはないような気がする。千葉すずの泣き顔がフォトジェニックだから、というので一面に載せたのは理解できるけれど、古橋会長の写真からはほとんど朝日新聞の悪意しか感じられない。
記事そのものは公平たろうと意識しているが、「識者の意見」は水連批判ばかりだし、写真がこれでは、読んだ古橋会長の憤慨はいかばかりであろう。
べつに私は新聞は公平たるべし、なんて言っているのではない。
ただ、こういうふうな遠回しな「不公平」のやり方に何となくいまの「いじめ」の構造によく似たものを感じてしまうのである。
相手が傷つくようなことをしておいて、「私にはそんな気はありませんでした」と言い逃れることができるように逃げ道をつくっているのが「いじめ」の特徴である。
そういうメンタリティがいま日本中に蔓延している。
そして、天下の朝日新聞が、「いじめはやめましょう」とかいいながら、その紙面で堂々たる「いじめ」を行っている。
公正を装う不公正、中立性を装う党派性、そういうものがいちばん醜く、有害である。
千葉すず事件は、そういう日本の体質を批判していたはずではなかったのだろうか。
それを報道する新聞が、その体質を再生産してどうするつもりなのであろう。