8月1日

2000-08-01 mardi

朝日新聞の朝刊の「eメール時評」にイ・ヨンスクという一橋大学の先生がインターネットについてすごくつまらないことを書いていた。
こんな論理展開である。

「これまで少数の特権的な人たちだけが独占していた知識や情報が、今では簡単にネットを通じて得られるようになった。その意味ではインターネットはたしかに自由で開かれた空間である。」

しかし、「この開かれた空間がたちまち陰湿な暗闇に変わってしまうことがある。」

「インターネットのなかでは、ことばと人間の結びつきが断ち切られるためであろうか、だれのものでもない言葉だけが浮遊する。そのことばを発した現実の人間がだれかをつきとめることは、相当にむずかしい。そうなると、ことばのなかにひそんでいる暴力性だけが肥大化していくことになる。」
「また、不思議なことにインターネットは人々を幼児化させるらしい。普段は無口で慎重な人でも、なぜかネットのなかでは幼稚で子供っぽいおしゃべりをすることがある。」
「さらに困ったことには、明るい昼間の社会ではけっして口にできない赤裸々な表現や差別表現や中傷が大量に流出してくる。こんなときインターネットは、社会のなかで抑圧された欲望を噴出させるやみのチャンネルと化する。」

これはインターネットについての「左派的知識人」のきわだって定型的な口吻であり、私はこのような定型的なことばを繰り返して、なにごとか啓蒙的なことを言っている気分でいるひとにいささかうんざりしている。
この文章の前段はまず間違っている。
現在インターネットによってアクセスできる情報は決してこれまで「少数の特権的な人たちだけが独占していた知識や情報」ではない。
「独占されている情報」で、「独占しているひと」が公開する気のない情報には、これまでもこれからも、インターネットを使おうと何をしようとアクセスできない。
そして、社会の成り立ち方や世界の機能の仕方にかかわる枢要な情報のかなりの部分は依然として公開されていない。(JFKの暗殺についてのウォーレン委員会の報告書は80年間非公開であり、その膨大な資料は国立公文書館にいまでも「アナログ」のかたちで保存されている。ハッカーが逆立ちしてもアクセスできない。だって紙に書いてあるんだもん。)
インターネットでアクセスできる情報は、これまでも「手間さえ惜しまなければ誰でも手に入れることができた」情報である。その「手間」が飛躍的に縮減された、というだけのことである。
こういうあまり意味のない「前ふり」に私が噛みつくのは、この中でまるで「情報を独占する少数の特権的な人々」が実体として存在していることが自明であるかのように書かれているからである。
「情報が公開されていない」ということと「情報が一部の特権集団に独占されている」ということはずいぶん意味が違う。
ある種の情報が公開されていないことは事実である。(例えば、私の私生活についての情報は公開されていない。みなさんが読んでいるのは私のつくった「おはなし」である)だからといって「情報が一部の特権集団に独占されている」というふうに私は考えない。
「情報を独占する少数の特権的な人々」というのがもし存在するとしたら、その人たちが「情報の独占」を通じて行う最初の仕事は「情報を独占している少数の特権的な人々が存在する」という情報の完全な消去のはずである。
しかし、彼らはそれに成功していない。(だって現にイ・ヨンスクさんがその「情報」を握っており、結果として800万人の朝日新聞読者も知っているからである。)
だとすると、「情報を独占しているとされる少数の特権的な人々」は、あまり効果的には情報を独占し得ていないということになる。
これは論理矛盾ではないだろうか?
もちろん、「情報を独占する少数の特権的な人々」が非常にクレヴァーである場合は、自分たちの存在をカモフラージュする最良のマヌーヴァーは、私がいましたような推論によって「そんな集団なんか存在しない」と人々に結論「させる」ことだ、と気がつくということはありうる。
その場合は、イ・ヨンスクさんは(自覚的であると否とを問わず)その「特権集団」のスポークスマンとして機能しており、そのプロパガンダ活動の一翼を担っていることになる。
さて、彼女はどちらなのであろう。「存在しない悪者を批判している」のだろうか「彼女自身が悪者の一味」なのであろうか。

まあ、「前ふり」のことはよろしい。
問題は、本論のところである。
私はインターネットでホームページを開いて一年半になる。アクセス数はそろそろ3万に近づいてきた。BBSもずっと公開している。
しかし、この「開かれた空間」が「たちまち陰湿な暗闇に変わった」という経験を私はしたことがない。
ホームページを開く前は、もしかすると、知らない人からすごく暴力的な書き込みとかされたら傷つくだろうな、という不安があった。しかし、まあ、そういうリスクを折り込んでやらないと、ホームページなんか開けない、と腹をくくったのである。
このホームページそのものはけっこう「暴力的」である。
私はいろいろな個人や制度の悪口をさんざん書いている。
当然、それをこころよく思わず、「てめー、でけー口きくんじゃねよ」みたいな品のないメールが来たりするかしらと思っていたけれど、これが過去一年半に「一度もない」。(「じゃあ、今日、おれがやってやるよ」とか決意しないで下さいね。おねがいね。)
「ことばのなかにひそんでいる暴力性だけが肥大化していく」ということは(ネットに限らず)文章で意見を表現しているかぎり、必ず起こる。
けれども、「暴力性だけ」が肥大化するとしたら、それにブレーキをかけるものがないとしたら、それは書き手と読み手のあいだに、「直接的な」コミュニケーションが存在していないからだと私は思う。
ネット上でのやりとりは「顔が見えない」から「直接的なコミュニケーションでない」というふうに私は考えない。
たとえ「顔が見えなくても」、メッセージの送り手が明確な「読者像」を持っており(私は持っている)、受け手の側に送り手の像がかなりはっきりと把持されている場合(私はそうなるように努力している)コミュニケーションは(その本質的な意味で)「顔と顔を向き合わせたもの」たりうると私は思う。
顔と顔が向き合っている限り、暴力性「だけが」肥大化するということは防げると私は信じている。(愛憎こもごも、というような事態はありうるだろうけれど)

もうひとつ、ネット・コミュニケーションでは、ある人が訪れるウェブ・サイトは訪れるその人自身の鏡だ、ということである。
その人の「お気に入り」「ブックマーク」はその人間の一面を実に端的な仕方で表している。
これについてはいつも明晰な小田嶋隆にかわって解説してもらおう。

「インターネットに関わり始めた人間は、ある意味で自分の内面を旅することになる。というのは、この世界が情報(つまり人間の脳味噌の中身を外部化したもの)だけで出来上がった世界だからだ。
つまり、あまねく広がった情報の海の中から自分に関心のあるものを取捨選択して行く過程は、自分の頭の中身を再確認する過程に他ならないのである。
私の場合、それは動物写真の収集であり、爬虫類情報の検索であり、ロックミュージックの歴史探訪であり、サッカーの試合結果の確認であり、あるいはそれらに関連する周辺情報の閲覧ということになる。つまり、これが私のアタマの中身なのである。
別の人間は、違う情報を集め、違う経路を歩き、違う関わり方でインターネットに臨む。
(…)
そりゃたしかにエロページしか見ない人もいる。
はじめっから最後までエロ一本槍の男もいる。
そういう人間にとっては、確かにインターネットは新種のエロネタに過ぎない。
が、世の中はそんな人間ばかりではないのである。
あなたのアタマの中身がエロオンリーだから、あんたのインターネットはエロしか映し出さないのだ。
『インターネットなんてつまらない』
と言っているあなた。つまらないのは、あなたの方ですよ。」(『パソコンは猿仕事』)

私はこの言葉をそのままイ・ヨンスクさんに転送したいと思う。
もし彼女にとってのインターネットが「普段は無口で慎重な」ひとが「幼稚で子どもっぽいおしゃべりをする」場であり、「明るい昼間の社会ではけっして口にできない赤裸々な差別表現や中傷が大量に流出」する場であるとしたら、それは彼女の中にある幼児性や暴力性にインターネットが感応しているのである。
そんなことはない、現に暴力的な言説が湧出しているサイトがやまのようにあるではないか、というのは反論にならない。
だって、私はそんなサイトに一度も出会ったことがないからだ。(何かの間違いで近づいてしまったときには「匂い」で分かるので、あとも見ずに逃げ出す。)
私にとって、そういう「感じの悪いサイト」というのは「肥溜め」と同じである。
「肥溜め」が臭いときに、「どうして肥溜めはこんなに臭いのだろう。どんな蛆が湧いているんだろう。何が腐臭を発しているのだろう」と好奇心にかられて首を突っ込むひとだけが悪臭を胸一杯に吸い込むのである。
「私は年中肥溜めにでくわす」という人は、単に「肥溜め」がありそうなところを選択的に歩いているということである。
インターネットが「社会の中で抑圧された欲望を噴出させるやみのチャンネルと化する」のは、「心の中に抑圧された欲望」のチャンネルを探してザッピングしている人の身に選択的に起こる出来事である。TVの場合と同じで、「やみのチャンネル」が見たくなければ、そのチャンネルにチューニングしなければいいのである。ある人にとって「インターネットがやみのチャンネル」であるのは、その人がそのようなチャンネルを選んでいることの結果であって原因ではない。
私にとってインターネットは「小学校6年のときに平川君とやっていた壁新聞の延長」である。だからそこには「抑圧された欲望」とか「やみ」とかは登場する余地がない。
インターネットというのは要するに「ヴァーチャルな世界」である。それがどういうふうに見えるかは、「現実の世界」がどういうふうに見えるかと同じで、見る人の視点によって決定されるのである。
世界のうちに「肥溜め」ばかりを見出す人は、要するに「肥溜め」が好きなのだと私は思う。