7月30日

2000-07-30 dimanche

急に思い立って、昨日から毎朝「天声人語」の仏訳をすることにした。
読むだけで、フランス語をぜんぜん書いてないので、夏休みのあいだでもフランス語の作文の練習をしておこうと思って始めたのである。
30分くらいで済むだろうと思っていたのだが、これがけっこう時間がかかる。日常的な単語が分からないのは仕方がないとして(私は「ゴキブリ」とか「扇風機」とかそういう「ふつうの言葉」をぜんぜん知らない)分からないのが「日本人の書く文章」である。
たとえばこんなのはむずかしい。

「日本の医療、福祉制度は制度をつくる側に偏っている。制度とは、それに人を合わせるのではなく、介護を受ける人がそれまでの人生を大切にし、継続して生きるにはどんな方法があるかを自分で選択し決定し利用するものです。」

と、生活介護ネットワーク代表の西村美智代さんは語っている。
最初の文の「偏っている」も訳しにくいけれど、二つ目の文はもっとすごい。
「制度とは」が主語で始まり、その主語がいきなり「それに」と目的語になる。「介護を受ける人」が「それまでの人生を大切にし、継続して生きるにはどんな方法があるか」を「自分で選択し決定し」はなんとかなるとして、「利用する」の目的語が最初の主語の「制度」であるので、どういうふうに文を構成してよいのかぜんぜん見当がつかなくなる。
しかたがないので

「制度とは、その利用者の需要に応えることを本義とする。」
「介護を受ける人は、それまで生きた経験が尊重され、引き続き威厳ある生を継続していきたいと思っている。」
「その方法を見出すために、制度の提供するサービスをどう利用すべきかを決定する権利は利用者に属する。」

というふうに三つの文に分けたが、これは「意訳」というよりは「改竄」である。
西村さんに恨みはないが(こっちも好きでやってるんだから)、こういう言い方で「意味が分かる」と思って公的な場で発言しているとしたらやや不親切だし、これをそのまま、「熟読玩味すべき最近の発言」として掲載する朝日新聞もどうかと思う。
日本人は論理的に語らない、ということがよく言われる。
私はそういう「アメリカでは・・・」みたいな言いぐさは大嫌いだけれど、たしかにもう少し論理的に語る訓練が必要なひとたちがいるような気がする。

コンコルドが墜落して、フランス人のジャーナリストが「フランスが国策で巨額を投じて開発したけれど、国際的なマーケットでは誰も買い手がつかなかったもの」としてコンコルドの他に、高速増殖炉スーパーフェニックス、TGV、ミニテルを挙げていた。
ミニテル、懐かしい。
私は「ミニテル日本最初のユーザー」の一人である。
1985年頃、大学の研究室に三井情報開発という会社のDMが来た。よく分からないけれど、便利そうなので、電話して営業のひとにプレゼンをしてもらった。他の先生方はぜんぜん関心を示さなかったけれど、私は「これはよい」ということで、勝手に導入を決定した。三井の営業マンの話では、ミニテル導入を決めたのは東北大学の仏文に続いて都立大が二番目だったそうである。
月5000円の基本料金で端末がフィリップスのおもちゃみたいな機械でたしか5万円。
25000のデータベースが使えるというので、うれしくて毎日カチャカチャとキーボードを叩いていた。図書検索のALIRというデータベースとドクトラの論文の題目とレジュメが読めるTELETHESEというデータベースをよく使った。
でも私以外の人は誰も見向きもしなかった。どうしてなんだろ。面白いのにね。
そのうちインターネットの時代が来て、ある日「ミニテルのサービスは打ち切ります」という手紙が一通来て、終わってしまった。日本では5年くらいしかサービス期間がなかったのではないかしら。だから、その五年のあいだ、ついに私以外の「ミニテル愛用者」に出会うことがなかった。(ミニテル同士でメールのやりとりも出来たんだけど)
私は繰り返し言うようにメカにはまったく暗い人間であるけれど、今から思うと、こういうガジェットはけっこう好きだったのである。
そういえば、それと同じ頃、アーバンが導入したWANGというワープロも思い出深い。600万円もしたんだぜ。ワープロが。機械はデスク一つ分くらいあって、ディスプレイは黒いバックに緑の文字が2行くらい出るだけだったが、キー操作だけでテクストの直しがディスプレイ上で出来るのを見て感激した覚えがある。(それまでは一文字間違っていると、IBMの特殊なタイプライターをもっているタイピストの家までバイクで走っていって、一文字打ってもらって、それを糊で版下に貼ってたんだよね。)
仕事がら、私はたまたまアナログ時代からデジタル時代への過渡期をその先端的「ユーザー」として過ごしたわけである。
それなのに、いまでもエクセルは使えないし、国文社から送られてきた校正のファイルが解凍できなくて、「紙」を宅急便で送ってもらって赤ペンで校正している。
一時的に先端的でも長い人生ではあまり意味がないということであろうか。(本日の教訓)

午後から杖道の伝達講習会があるので、王子公園の体育館に行く。県下の杖道家のお歴々が集まって「杖道の2000年度仕様変更」について伝達を受けるのである。
分かりにくいだろうけれど、杖道とか居合では、「この技の理合はこうだから、動きはこうなる」ということについて毎年全剣連の「仕様」がちょっとずつ変わる。
不思議な現象である。
講師の先生のご報告によると中央講習会の席でも、デリケートな問題になると師範の先生たちのあいだで意見がまとまらず「ま、各自工夫をするように」という玉虫色の答申が出るのだそうである。
だったら、別に無理して統一する必要もないような気がするけれど。
その点、古流はよい。
師弟の口伝での伝授であるから、「私の師匠はこうおっしゃった」ということを心に秘めておけばいいのである。(門外不出だからね)
というわけで家に帰ってから、「師弟の口伝で叡智は伝授される」というテーマでレヴィナスのタルムード解釈についてどんどん原稿を書く。杖道のお稽古に行って、研究のアイディアを頂けるとはありがたいことである。「1のインプットで5のアウトプット」というアクロバシーが出来るのは、きっと私のこの「いたるところに教訓を見出す」能力によるのであろう。

ではさらなる教訓を求めてまた今夜もバカ映画を見ることにしよう。
しかし、昨日の夜の『メッセージ・イン・ナ・ボトル』はひどかったなあ。あの映画の教訓ってなんだろう。「あとから『しまった』と思うようなことはしないほうがいい」ということなのだろうか。うう、その程度のことのために2時間も映画を見たのか。くやしい。


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