7月28日

2000-07-28 vendredi

「マシン」と化して原稿を書き続ける。
三日間で50枚書いてしまった。
このペースで書けばたちまち本一冊書き上がる。(なかなかそうはいかないけれど)
朝の10時から夜の9時まで机に向かっていたのでほとんどひとと話をしていない。(郵便局の人に「これ、お願いします」と一言言ったのと、電話の営業で「マンション買いませんか?」というのに「いま両親とも留守です、ごめんね」と言っただけ。でも、いくら電話とはいえ、50歳の男にむかって「お父さんいる?」はねーだろ。)

「昼休み」に村上龍の新作『希望の国のエクソダス』を読む。
Ryu's Bar 以来、私は村上龍って実はすごく「いい人」だと思っている。書くものは喧嘩腰だけれど、実際に人に会っているときにはすごくデリケートな気配りのできるひとだった。この番組であまりにも「よいひと」の本性をあらわにしてしまったのを反省してか、その後めったにTVに出ない。
この人みたいなのを「真の愛国者」というのだと思う。日本を何とかしなければいけないと切実に思っているのがひしひしと伝わってくる。もちろん、それは屈折した批判としてしか表現されないんだけれど、そこには何か「過剰なもの」がある。(私は原則的に「過剰なもの」を支持する。)
この小説のクライマックスは不登校中学生たちのネットワークをたばねる「ポンちゃん」が国会の予算委員会に証人喚問されて、ネット中継で登場するところである。
「ポンちゃん」いわく。

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。」

ほんとにそうかもしれない、と私も思う。
私がいま中学生だったらほんとうに日本を捨てようと思うだろう。
私が16歳で高校を中退したとき、父親が私の将来を案じて「ドイツ留学」をオッファーしたことがあった。なぜドイツだったのかよく覚えていないが、たぶん向こうに父の知り合いがいたのだろう。私はそのオッファーを相手にしなかったけれど(だって「革命やろう」と思っていたんだから)。いまだったらかなり心が動くと思う。「日本になんかいてもしょうがない」といま高校生だったら思うに違いない。
あいにく、私はもう高校生ではなく、「このだめな日本」をこれほど「だめにした責任」というものがあって、それを捨てて逃げ出すことは許されない。
たぶん村上龍が日本語で小説を書き続けているのも、私と同じような「責任」を感じているからだと思う。

夕方仕事を終えて、頭の「クールダウン」にカート・ヴォネガットの『スラップスティック』を読む。「拡大家族」という言葉をよく聞くけれど、どういうことなのかこの本を読むまで知らなかった。
「拡大家族」、いいなあ。
そう言えば、村上龍の新作も一種の「拡大家族」の話である。21世紀の共同体はあるいは一種の「拡大家族」を造りだして行くことになるのかもしれない。
その『スラップスティック』にすごく気に入った言葉があった。

「わたしは愛をいくらか経験した。すくなくとも、経験したと思っている。もっとも、わたしがいちばん好きな愛は、『ありふれた親切』ということで、あっさり説明できそうだ。短い期間でも、非常に長い期間でもいい、わたしがだれかを大切に扱い、そして相手もわたしのことを大切に扱ってくれた、というようなこと。愛は必ずしもこれと関わりと持つとは限らない。」

私はカート・ヴォネガット・ジュニアに100%賛成である。
「ひとを大切に扱う」ということは簡単のようだけれど、とても、とてもむずかしい。
「ひとに親切にする」ことは「ひとを愛する」ことより簡単そうだけれど、たぶん、それよりむずかしい。
「ひとを愛する」ためにはあまり必要ではないけれど、「ひとに親切にする」ためには想像力と知性が必要だからだ。
そして、おそらくいまの日本社会にもっとも欠如しているのは、想像力と知性だ。