7月26日

2000-07-26 mercredi

新聞を読んでいて「大学」という文字を見ると、条件反射的に目が行く。
今朝も二つの記事に目がいった。
そして深いため息をついた。
どうして大学のひとってこんなに頭が悪いんだろう。(いいたかないけどさ)

一つは青学の厚木キャンパス「放棄」のニュースである。
1980年代に都内の大学が続々と郊外に移転した。
表向きの理由は「キャンパスが手狭になったから」である。
確かに理工系の学部がとにかく空間を欲しがっていたのは事実である。
しかし、人文科学、社会科学系の学生や教員にとって郊外への移転には何もメリットがない。交通の便が悪くなるだけではない。山を切り開いたようなキャンパスの周囲には、本屋も映画館もジャズ喫茶も劇場も美術館も、何もない。(あるのはローソンと「村さ来」だけである。)
それでも大学側が移転にこだわったのは、その前の「学園紛争」に懲りたからである。
24時間学内学外者を問わず出入り自由の校舎が都心にあるということが全共闘運動を支えた強力なインフラであった。「お茶の水カルチェラタン」地区がそうであったように、そういう拠点には学生が湧き出すように何千人も集まり、機動隊が来ると、あっと言う間に「街の中」に消えてしまった。まさに「都会という大海」のアクセスの良さが学生運動には有利に作用していたのである。
だから、大学当局は同じ過ちを繰り返さないために、郊外に巨怪なキャンパスを造って大学を「社会」から隔離することにした。学生たちはIDカードのチェックを受けないと校舎に入れない。誰が何時から何時までどこにいたのかをコンピュータで集中管理できる。学外者がキャンパスを跳梁するというようなことはもうあり得ない。
策は功を奏して、社会から隔離された学生たちは政治に対する関心を急速に失っていった。
しかし、大学は大事なことを忘れていた。
受験生たちはいずれ「偏差値は高いけれど厚木や八王子にある大学」より「偏差値は低いけど渋谷とか六本木にすぐに出られる大学」のほうに高い市場価値をつけるに決まっているということである。
そんなこと誰だって分かる。
青山学院大学は厚木の山奥、最寄り駅からバスで40分というところにキャンパスを造ったために「厚木学院」大学と蔑称され、志願者の急減という悲惨な事態を招いた。学生党派の梁山泊の感があったお茶の水の中央大学はまるごと八王子に移転したせいで、都心にとどたまった隣の明治大学に人気で大きく水をあけられた。
そして、18歳人口激減のいまになって80年代に郊外に移転した大学の「都心回帰」が始まったのである。
青学は300億円を投じた厚木キャンパスを捨てることにした。(そしたら中等部の志願者がいきなり急増したそうである。)
早稲田、明治、法政、立教、日大、東洋大が都心に土地を購入して新キャンパスの増設をはじめている。
都心にある大学でないと受験生が集まらない。まして社会人対象の大学院や公開講座の場合はオフィスからのアクセスが悪いのは致命的だからである。
私が驚くのは、1980年代に大学の郊外移転が始まったときに、「都心から郊外に移ることで大学としての社会的機能のいくつかは致命的に損なわれる」ということを私のような助手風情でさえ予言できたのに、大学当局の誰一人それを真に受けなかったことである。
どうして当時の大学関係者たちこれほど明々白々な未来が予測できなかったのか、私にはどうしても理解できない。

もう一つの記事は東京医科歯科大学の歯学研究室が「カラ出張」で180万円を不正受領していたという事件である。
私の勤務していた大学の仏文研究室も「カラ出張」を組織的にやっていた。
助手になってすぐに、もうひとりの助手から「カラ出張の手順」を教わった。受領できる全額分の「インチキ旅行計画書」を書くという仕事である。
「これって、非合法なんじゃないですか?」と私がおずおず尋ねると、「どこの部署でもやってるよ」というお答えが返ってきた。
次の年に私が「カラ出張」の会計担当になったので、研究室会議の席で「カラ出張は止めましょう」と提言した。「やりたい人は自分で起票して自分のリスクでやってください。」
この提言ははげしいブーイングによって迎えられた。
カラ出張はかなり悪質な違法行為である。仮に大学のほかの部署でもやっていたにせよ、ばれたら懲戒免職であることにかわりはない。私は助手に採用されたばかりだったので、年間わずか数万円のお金のせいでそんなリスクを負うのはごめんであった。
誰かが新聞社に電話一本かければ「おしまい」である。先生方にしてみれば数十年営々として築いてきた学者としての地位も名声も一夜で無に帰すのである。
彼らがその程度の「損得勘定」もできないことに私は驚愕した。
新聞にときどき大学の「カラ出張」や「ヤミ給与」の記事がでる。これで免職になった人たちはきっと「みんなやってるのに、どうして私だけつかまるの?」と泣いているのだろう。
「みんながやっている」ということは愚行や非行のエクスキューズにはならない。
その程度のことも分からない大学教師がたくさんいるのである。
そういう人たちが高等教育を支えているのである。
ちょっと怖くなる。

家に帰ってきたら、鈴木晶先生からメール。来週「ダンスの甲子園」の審査員として神戸においでになるそうである。ついにご尊顔を拝することになった。どきどき。