一つずつ授業が終わり、だんだん夏休みが近づいてくる。
4年生、3年生の専攻ゼミが終わり、1年生の文法が今日試験で終わり、2,3年生の語ゼミが明日試験で終わり、大学院は一足お先に先週で終わり、あとは来週の水曜に1年生のフランス語の試験ひとつを残すばかりとなった。
今年は6コマしか担当がないからめっぽうらくちんである。(例年はこれにもう一つ専門の講義科目があり、リレー式講義がひとつあり、合気道のワークショップが始まると、最繁忙期は週9コマとなる。これはけっこうきつい。それに比べると今年は夢のようである。)
もっとも週6コマで夢だと騒いでいるのは私だけで、本学でも大半の教員たちは責任コマ数5コマをきっちりキープしている。
理由はよく分からないが、外国語の教員は平均よりプラス2コマが当然であるとされている。これも理由はよく分からないが、外国語の単位は通年で2単位、ほかの講義科目の半分なのである。
要するにフランス語を教えるのは専門の講義にくらべると「半分程度の労力でできる仕事」というふうに見なされているということである。
そういうものなのかな。
文部書の教員審査で翻訳が評価の対象外である、というのと通じる発想かも知れない。(以前から言っていることだけれど、ぺらぺらのペーパーのほうが、数年がかりで訳した千頁の本より「業績」として高く評価されるということの理由が私にはよく分からない。たいへんなんだよ、翻訳って。)
体育なんてもっとすごい。通年で1単位。半期だと0.5単位なのである。
合気道を来年から体育正課にしてもらうように教務委員会に嘆願しているのだが、これが承認されると私は来年から体育の先生も兼ねることになる。このばあいは「専門の講義の4分の1程度の労力でできるでしょ」という評価を受けていることになる。
なんとなく気持ちが片づかない。
私程度のフランス語の教師は関西地域だけで500人くらいいる。
しかし合気道指導者として私と同程度の能力をもっている人は関西地域にそんなにはいない。
そういう、わりとレアな特殊技能を発揮しているときに「内田さん、趣味が仕事になっていいですね。それで給料もらっちゃ、ずるいよ、ははは」とか言われると、なんか違うんだけど、という気分になる。
例えば、ある学科では偉い先生にならないと大学院を担当できない。
大学院の指導は大変だから、という理由である。
私はそうは思わない。私自身は大学院生相手の演習がいちばん楽である。
モチヴェーションがはっきりしていて、ちゃんと調べてくることを調べてきて、ちゃんと意見を発表し、ちゃんとディスカッションしてくれる人たち相手に私はただ半畳を入れたり、喧嘩を売ったり、揚げ足を取ったりしていればいいのである。
こんなのは博士課程を出たばかりの新米教師にだって出来そうである。
反対に、ぼおーっとした一年生を相手に、彼女たちに「頭を使う」というのはどういうことかを一から教える方がずっと困難だし、経験と熟練が必要だし、終わったあとの疲労感もはんぱではない。
にもかかわらず、教育実践の「困難さ」なんかお構いなしに、そこで扱われている学問的題材の「水準の高さ」だけを基準にして大学内の教育活動はランクづけされている。
要するに脳(専門)が一番偉くて、その次が口や耳(外国語)で、最後が手足(体育)、という序列を暗黙のうちに大学は採用しているのである。
こういうのって、なんか「近代的だね」と私は思う。
そういうときはちょっとだけ「ポストモダニストになったろかい」と思う。
(2000-07-13 00:00)