7月12日

2000-07-12 mercredi

鈴木晶先生からサラ・コフマンの『女の謎』を頂く。

先生どんどんとご高著をお送り頂きまして、ありがとうございます。
鈴木先生はことしの年頭に「本を10冊出す」と宣言されたそうである。
すごい。
「月刊・鈴木」である。
私も10年くらい前、半年ほどのあいだに三冊翻訳を出した(というか、いろいろな時期にやっていた仕事がたまたままとめて「出た」だけなんだけど)ことがあり、そのときに西谷修さんから栄えある「月刊・内田」の称号を頂いたことがある。
私の場合の「月刊」は詐称だが、今年はそれでも例年よりはアウトプットが多い。
去年の暮れに松下君との共著、『映画は死んだ』。三月に難波江さんとの共著、『現代思想のパフォーマンス』と二冊出した。
来月にはコリン・デイヴィスの『レヴィナス序章』(仮題)が出る(予定)。
それに加えて、冬弓舎の内浦さんという奇特なエディターが、これまでホームページに書き散らした私のエッセイをまとめて本にしてくれるという泣けるオッファーをしてくれた。(なんて、いい人なんだろう)
これが出ると、1年間に4冊である。
「季刊・内田」だ。
それに、来年の6月までに専門単著を一冊書き下ろせという上野先生の厳命がある。
博士課程申請のために文部省の教員審査がある。私は博士号をもっていないので、専門単著がないと博士課程で指導できないのである。
だから、せりか書房のレヴィナス論をそれまでに仕上げなくてはいけない。
いろいろたいへんであるが、とにかく書けば本にして出して上げるという出版社があるだけでも夢のような話である。文句をいっては罰があたる。
しかし、ホームページには何でも書いておくものである。
リンクをたどってやってきた編集者が読んで「ほお、おもしろいから単行本にしましょう」というようなうまい話が転がっていないものかと夢想していたが、そういう話はやはり転がっているのである。
鈴木晶先生は「ホームページにタダであんなに書いてよいのだろうか」とご懸念されていたけれど、ご心配あらへん。そら、もとはきっちりとらさせてますさかい。イタチボリのアキンドでんがな。(って『パタリロ』読んでないひとには分かんないか。)

ためらいの倫理学

鈴木先生はふと気がつくと手がいつのまにか翻訳をしているという、私など足下にも及ばない「翻訳の鬼」だが、私との最大の違いは(出版点数もそうだが)、先生は、著者のレンジが広く、私は非常に狭い、ということである。
私はこれまでに12冊の翻訳を出しているが、その原著者の選択はきわめて限定的である。
全員「ユダヤ人の男性」なのである。

エマニュエル・レヴィナス、ノーマン・コーン、ベルナール=アンリ・レヴィ、ジェフリー・メールマン、サロモン・マルカ、アンドレ・ネエール、ロベール・アロン、ヴィクトル・マルカ。

レヴィとメールマン以外は全員「ホロコースト」の生き残りである
今回のコリン・デイヴィスが(おそらく)はじめての非ユダヤ人著者である。(本人に確認してないので断言はできないが、たぶん非ユダヤ人だろうと思う。)
これはかなり特異な選択だといわねばらない。
「あ、これ翻訳したい」という欲望に火を付ける本が、つねにそのような限定的な条件を課されているものだということに私自身は最近まで気がつかなかった。
ということは、私はこれまで女性の書いたテクストを翻訳したことが一度もないということである。(短いものでさえ)(鈴木先生はサラ・コフマンばかりでなく、エリザベス・キューブラー・ロスとかエリザベト・バダンテールとか、女性の書き物もばりばり訳している。)
これをして「ジェンダー・ブラインド」といわずして、何と呼ぶべきでありましょう。
でもちょっと言い訳をさせていただきたい。
翻訳をする、ということは、ある意味でそのひとに「憑依する」ことである。
そのひとの思考回路や感性に共振してゆくことなしには、文章のニュアンスはきちんと訳せない。
翻訳の名手でもある村上春樹は翻訳について、こう書いている。

「翻訳をやっていると、ときどき自分が透明人間みたいになって、文章という回路を通って、他人の(つまりそれを書いた人)の心の中や、頭の中に入っていくみたいな気持になることがあります。まるでだれもいない家の中にそっと入っていくみたいに。あるいはぼくは文章というものを通じて、他者とそういう関わりをもつことにすごく興味があるのかもしれないですね。」(『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』)

私はこの村上の感じがとてもよく分かる。
たぶん、それだからこそ「だれもいない(女の子の)家にそっと入っていく」ということに対してはすごくブレーキがかかっているんじゃないだろうか。
それは別に倫理的な意味での規制ではない。
「できれば見ずにすませたい」のである。
私が女性の書き手に「憑依した」ときに、私が半世紀にわたって培ってきて(そのまま墓場にもっていくつもりでいる)「女性についての幻想」が取り返しのつかないかたちで損なわれることになるような気がするのである。
私はべつに女性の魂の奥底には暴虐な「ワニマ」が住まっているとか、そういうことを恐れているのではない。(ワニマなんて怖くない)
私の逡巡は、私がおそらく「そこ」に何も見出さないだろうという予感によってもたらされているのである。