7月3日

2000-07-03 lundi

ひさしぶりの日曜なので、フェルメール展の最終日に天王寺まで行く。
動物園前という地下鉄の駅で降りるのは生まれてはじめてである。
「ジャンジャン横丁」というところを経由して市立美術館へ行くのであるが、これは「美術館への道」というものとしてひとが想像しうる最後の光景である。(って英語的な表現だね)

ジャンジャン横丁→動物園→ホームレスのおじさんたちの日光浴→カラオケ大会という「地獄巡り」のはてにたどりついたら、「待ち時間3時間」というアナウンス。
そのままUターン。
大阪はディープだ。

梅田に出て、コンタクトを半年分買って、パンツとシャツを買って、本を二冊買って、鰻を食べて、ビールを飲んでうちにかえる。
メル・ギブソンの『陰謀のセオリー』をTVで見ながら、買ってきた『知の欺瞞』を読む。
なんと、映画より本のほうが面白い。CMになると本の続きを読むのだが、「ああ、CMが終わらないでくれ」と祈るようにして読む。終わり頃になるとCMがばんばん入るので、本がたくさん読めて嬉しい。(だったら本だけに集中すればいいのにね)
映画が終わったので、そのままオールドクロウを飲みながら、ごろごろと読み続ける。
ポストモダニストの悪口をここまで徹底的に書いた本はない。(『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』というのも毒の強い本だったけれど、それとも比較にならない)
ソファで涙をながして大笑い。
いーなー、これ。
原題は Fashionable Nonsense、そのままでよかったのに、と私は思う。
著者はアラン・ソーカル、ジャン・ブリクモンのふたり、ご専門は数理物理学、量子力学など、私にはまったく理解できない世界のひとである。
そのソーカルが、1996年に、アメリカの人文社会科学の論文に(ほとんど無意味に)数学用語を使う例が多いのにうんざりして、アメリカのカルチュラル・スタディーズ誌 Social Text に「著名なフランスやアメリカの知識人たちが書いた、物理学や数学についての、ばかばかしいが残念ながら本物の引用を詰め込んだパロディー論文」を送りつけたのがことのはじまりである。
『境界を侵犯すること-量子重力の変形解釈学へ向けて』と題する「ばかげた文章とあからさまに意味をなさない表現があふれるばかりに詰め込まれた」論文を『ソーシャル・テクスト』はなんと受理し、掲載してしまった。
ひどい話だ。
もちろんソーカルがではない。
これまでポストモダンの知識人たちが自説を開陳するなかで使ってきた数学、物理学にかかわるまったく無意味な記述を「あらゆる科学は歴史的生成物にすぎず、仮想的な観測者は徹底的に脱中心化されなくてはならない」というポストモダンの常套句にコラージュしただけのおふざけ論文をそのまま掲載してしまった『ソーシャル・テクスト』のレフェリーたちの頭の悪さが、である。
このパロディにソーカルがコラージュした文章は、ドゥルーズ、デリダ、ガタリ、イリガライ、ラカン、ラトゥール、リオタール、セール、ヴィリリオから引用されたものである。
ここで、ソーカルが論証しようとしたのは、ポストモダンの思想家たちは論証において、しばしば数学や物理学の用語や数式を使う傾向にあるが、専門家から見ると、どう見てもその利用法は適切とは思えない、ということである。
理由は二つある。

一つは、それによって読者は何の利益も得ない、ということである。
もちろん数式を導入することによって、人文科学、社会科学のある理論が「分かり易く」なるのであれば、いくらでも導入すればよろしい。
しかし、例えばクリステヴァの詩的言語論やラカンの精神分析理論を読む読者の大半は、数学や物理学の専門家ではないし、専門的な教育も受けていない。
したがって、集中的な専門教育を受けないと基礎的理解にさえ届かないはずの位相幾何学や集合論や微分幾何の用語を説明に使ったおかげで読者の理解が飛躍的に進む、ということはほとんどありえない。
読者の理解を助けるためでなければ、彼らはなぜ数学用語を用いるのであろうか?

第二に、専門家から見ると、彼らは(ましな場合には)数学の入門教科書程度の知識を有しているが、(ほとんどの場合)自分たちが利用している概念をまったく理解していない。
自分が十分に理解できていない専門用語を彼らはなぜ用いるのであろうか?

謎は深まるばかりである。
このような知的態度は「科学を知らない読者を感服させ、さらには威圧しようとしているとしか考えられない」というソーカルの推理は十分に検討するに値する。
「いや、ラカンのトポロジーとか、クリステヴァの集合論とかは単なるメタファーなんだよ。専門的な意味で一義的に使っているわけじゃないんだから本気にとるなよ」という人がいるかも知れない。
しかし、その場合、メタファーを用いる目的は何なのだろう?
メタファーというのは「馴染みのない概念を馴染み深い概念と関連させることで説明する」ための技法であって、決して逆の状況では使わない。
もし物理学のセミナーで「場の量子理論」を説明するときに、デリダの「アポリア」の概念をメタファーとして使ったとしたら、セミナーの出席者はそんなメタファーがいまの説明のために妥当かどうか問う以前に「何言ってるか分からない」と泣き出すだろう。(しかし逆の場合は誰も泣き出さない。不思議だ。)
百歩譲って、メタファーとして科学の用語を使う効用があるとして、何も自分自身あやふやにしか理解していない概念をわざわざ使うことはない。
自分がよく理解している言葉を使うほうが、自分が理解できていない言葉を使うより、言いたいことを伝える上ではかなり有利だと思うが。
という、ソーカルたちの意見に私は全面的に賛成である。

ラカンの数学について著者たちは、あれは「お経」のようなものだ、と書いている。
それらの記述のほとんどは数学的にはナンセンスであり、重要な概念のいくつかは定義が間違ってる。
ラカンは別に数学の先生ではないし、読者も数学の授業を聞いているわけではないのだから、定義なんかどうでもいいのだろうが、これらの数学的概念とラカンの精神分析理論のあいだの「アナロジー」がなぜ成り立つのかについて、一言の説明もない、というのは困る。(と著者たちは言う。しかし、実を言って私はあまり困らなかった。私はむかしから数式がでるところは、どんな種類の本でも、全部飛ばして読むことにしているからである。)
しかし、とソーカルは最後にラカンに救いの手をさしのべている。

「彼が述べていることは、意味が通るときは、いつもがいつもでたらめというわけではない。」

ドゥルーズの場合も手厳しい。
あるフランス人の物理学徒が、大学卒業後、哲学に転向して、「深遠」と評判のドゥルーズを専攻することにした。ところが『差異と反復』の中にある解析学についての記述がまったく理解できない。
「彼のように解析学を何年も専門的に勉強した人間が、解析学について書かれているはずのテクストが理解できない」場合、その理由としていちばん蓋然性が高いのは、「おそらくそのテクストにはたいした意味がない」ということである。
ある主題について意味がないことを書く人間は、それ以外の主題についても意味がないことを書いている可能性が(そうでない場合よりも)高いのではないか、と著者たちは推理している。
なるほど。
そのソーカルたちの結論は次のようにたいへん常識的なものである。

(1)自分が何を言っているのか分かっているのはいいことだ。
(2)不明瞭なものすべてが深遠であるわけではない。

私はこの二点については、100%同意する。
とはいえ、私は人間の「バカになれる可能性」のうちにも人間の偉大さを見出す、という太っ腹な人間観の持ち主なので、これに若干の補足をしておきたい。

(1)自分が何を言っているのか分かっていないときに、変に面白いことを言い出すひとがいる。
(2)不明瞭である上に深遠であるものも(たまに)ある。

ラカンやデリダはけっして分かり易い思想家ではないし、分かり易く書くことにほとんど努力のあとを示さないが、「意味が通るところでは、ときどき何を言いたいのか分かることもある」し,たまに「変に面白いこと」を書くので、私はけっこう好きである。
ソーカルたちが心配しているほど読者はナイーブではないと私は思う。
みんな「分かんない分かんない」と言いながら結構そういう状況を楽しんでいるのではないだろうか。(『ソーシャル・テクスト』のレフェリーだってふざけ半分に掲載したのかもしれない。私がレフェリーだったら掲載するほうに一票入れたと思う。だって面白いんだもん。ソーカルのパロディー論文。)