おお、7月だ。あと少しで夏休み。
こんなことを書くと世間のひとびとは怒り狂うであろうが、7月末から10月まで私たち大学教員には夏休みというものがある。
しかし、誤解して頂いては困るが、この二ヶ月余を私たちは寝て過ごしているわけではない。(ちょっとはするけど)
基本的には学期のあいだにはできなかった「まとまった仕事」をこなすのである。
どこにもいかないで、毎日じっと家のなかで机に向かっていると、パソコンや文献と一体化してきて、バイオメカノイドというかマキナ・アカデミカというか「読書-思考-執筆-機械」のようなものに化身する。
よく「企業の歯車になんかなりたくない!」というようなことを叫ぶひとがいるが、どうしてそれがいやなのか、私にはよく分からない。
歯車、楽しいぞ。
私はかりこりとペーパーを産出していると、自分が「論文生産機械」の歯車になったようで、たいへんに気分がよい。
ふだん学期中は、機械になりたくても、頻繁に「人間に戻って」講義をしたり、会議に出たり、学生さんに卒論指導をしたり、悩み相談をしたりしなければいけない。そのつど声色を変え、立場を変え、意見を変え、価値観を変えるので、たいへん忙しい。
なぜ、そんなにころころ態度を変える必要があるか、訝しがるひとがいるかもしれない。
実は、それが私の仕事なのである。
大学での私の役目は、私の前に立っているひとが「何を言って欲しいのか」を聞き取って、それを本人になり代わって言ってあげるというものである。
なぜって・・・
だって、ふつう誰だって「自分が聞きたいこと」しか聞かないでしょう?
聞いてくれないことをしゃべっても時間と労力の無駄である。
どうせなら、聞いてにこにこしてもらうほうがおたがいに気持がいい。
他人の意見を自分の意見みたいにして語るのはけっこう楽しい。
ある学生には「人間の基本は自立だ。いますぐ家を出て自活しなさい」と説教し、その次に来た学生には「親のすねを囓るのは大事な親孝行だよ。いたわっておやりよ」と説教する。ある学生には「本なんか読まなくていいから自分で考えなさい」といい、別の学生には「自分の枠を超えるためには本読むしかないでしょう」と言う。
ときどき「先生、前とお話がちがうようですが」と怪訝な顔をする学生がいるが、それはね、君が成長したということなんだから、それくらいのことは我慢しなさい。
話は変わるが、「仕事ができない人」と「仕事ができる人」の区別というのをむかしサラリーマンのころに誰かに教わったことがある。(お兄ちゃんに聞いたのかもしれない)
「仕事ができない人」というのは、仕事をひとりで抱え込んでしまって、その人がいないと、その部分の仕事が完全にストップしてしまうように仕事を組織している人である。
こういう人はいつも「忙しい忙しい」と意味もなく走り回っており、みんなが帰ったあとに深夜まで残業したり、土日出勤したりして、あげくに「俺ひとりでうちのセクションの仕事全部しているのに、みんな『ありがとう』も言わずに定時に帰りやがんの」と居酒屋でぐちっていたりする。(私はどちらかというとこのタイプである)
「仕事ができる人」というのは、仕事をうまいぐあいにばらまいてあるので、その人がいなくても、とりあえず困らないようにしてある。一見するといつもあちこち歩き回っておしゃべりしたり、遊んだりしているように見えるが、実は絶妙にコーディネイトの糸をたぐっているのである。このひとがあまった時間に思いついた脳天気なプロジェクトが次の企業戦略の核になったりする。(平川君やお兄ちゃんはこのタイプ)
「つまり、いなくなると困るひとが仕事ができない人で、いなくても平気なひとが仕事ができる人、ということなんですね」
うーん、要約されるとちょっと困る。
だって「いなくても全然困らないが、いても何の役にも立たない人」というのも存在するからね。けっこう、たくさん。
しかし、いずれにしても、そのひとが抜けると仕事に致命的な影響が出るようにわざわざ自分の仕事を組織化しているやつはやっぱりバカである。
「そごう」の債権放棄の理由というのは、「そごうが潰れると社会的影響が大きいから」だそうである。これって「そごうはバカだ」と言っているのと同じだと私は思う。
(2000-07-01 00:00)