あめがぼしょぼしょ降り続けるので、道衣がぜんぜん乾かない。一年ぶりのVIAのパフォーマンスだけれど、着てゆく道衣がないので、いちばん湿り気のすくない洗濯物をしかたなく選び出す。
VIAというのは、スタンフォード大学の学生さんたちがアジアでやる教育実習みたいなものらしい。その学生諸君が、アジア諸国に実習にでかけるまえに、日本で「アジア文化圏への導入」の機会をお持ちになる。
そこで関学とうちの大学で、この方たちに「日本の伝統文化」をお見せするといううるわしい習慣が定着しているのである。
以前は能楽部の舞囃子や茶道部のティーセレモニーなどもあったのだが、今年は、華道部のフラワーアレンジメントのワークショップと箏曲部の演奏と合気道部の演武の三つだけである。
プログラムがさびしいせいで時間が余った、というので、杖や居合の演武も見せることにした。
合気道の演武をしたあとで、「あとふたつほど出し物があるんですけど。見たいですか?」と訊ねたら、学生さんたちはみんな「イエー」と答えてくれた。フレンドリーなオーディエンスである。
体育館に移動して、私が居合を五本ほど抜いて、学生さんたちに杖の制定型を着杖から乱合まで12本演武していただく。
杖をお見せしたのはVIAでははじめて。いつも付き添いで来るスタンフォードの先生、「いやー杖はじめて見せて頂きましたが、毎年出し物がふえて、がんばってますね」(というようなこと)を英語で言ってくださった。(たぶん、そうだと思う。)いつもにこにこと挨拶してくれる、とてもハートウォーミングな方である。
演武は合気道も、杖道もなかなか堂々たるものであった。リハーサルもしないで、いきなり演武をしても、ちゃんとそれなりのものをみせてくれる。やはりみんな十分な場数を踏んできた、ということであろう。
私はなぜか武道がからむと英語をはなすのが苦痛でなくなる、という傾向がある。
武道以外のことで英語をはなすと、ぼろぼろつっかえてしまうが、こと武道の話になるとなぜか流暢になる。
それは、言葉の切れ目の「えーと」が、「あ、英語でなんていうんだっけ、思い出せない。わーどーしよー」ではなく「私が言いたいことが君に理解できるだろうか、ちょっと素人さんには、むずかしい話なんだけどね」という「余裕の沈黙」というものになるからである。
同じ沈黙が「言葉が出てこないバカそうな間」ではなく、「言葉をゆっくり選んでいる賢そうな間」に変じるのである。
この「間」に相手が畏怖と好奇心にあふれたまなざしで私をみつめていたりすると、私の英語会話能力は一気に飛躍的に向上するのである。
つねづね申し上げているのであるが、外国語コミュニケーションを可能にするのは、なによりもまず「話すものに対する聞く側の敬意」である。聞く気のない対話相手に対して心の思いを伝えることは、同国人に対してさえきわめて困難である。まして外国語においておや。
私のフランス語がめちゃめちゃなのは、あの国では、私の話すフランス語に深く傾聴するという態度を示す人間にほとんど出会う機会がないからである。
かの国で私が出会うフランス人たちは、なぜか私が話す内容にはほとんど関心を示さず、ただ私の口にするフランス語の発音と文法の間違いだけに関心を集中させているように思われる。(マクドナルドのねえちゃんからして、私の「マックシェイク」の発音を直すのである。発音が直せるということは聞き取れたということだろうが、だったら黙って「マックシェイク」を出さんかい)
いやな国である。
その点、英語はよい。なにしろアメリカ国内に英語が話せないアメリカ国民がごまんといるのである。
いちいち文法の間違いなんか直していたら、コミュニケーションなんか成立しっこない。
だから私のように駿台予備校の英作文教科書の例文のままのような英語を話してもノープロブレムなのである。
竹信くんの話では、He is an oyster of a man.(彼は牡蠣のように寡黙な男である)という表現をいまだに日本の中年男性は英語国民とのコミュニケーションで頻用しているそうである。(Japan Quarterly の副編集長であるアメリカ人は、なぜ多くの日本人がこのような古めかしい雅語的メタファーを知っているのだと、久しく疑問におもっていたそうである。昭和のベストセラー参考書「新新英文解釈」の最初の文例だったんですよ。実は)
で、話は飛ぶけれど、いまの人間関係でいちばん欠けているものは何か、ということがこのあいだ議論になった。
「愛」じゃないですか、と学生さんの一人が言った。
甘いね。
「愛」なんか売るほどあるよ。
欠けているのはね、「敬意」なのである。
「敬意」というのは、「自分とは別のもの」に対する畏怖と、理解不可能であることへの涼しい諦念と、それにもかかわらずコミュニケーションの回路を維持しておきたいと願う欲望のおりなす、とてもデリケートなこころのあり方である。
「敬意」のあるところにしか対話は成り立たない。
「愛」というのをしばしばひとは「親しさ」と勘違いする。
そして「親しさ」は実にしばしば「敬意の欠如」として表現される。
だから「愛」があるのに、「対話」が成り立たないという関係が増殖するのである。
おじさんたちがいちばん切実に求めているのは、「愛」ではない。「敬意」である。
(2000-06-30 00:00)