6月23日

2000-06-23 vendredi

竹下登が死んだ。
朝日新聞は「調整型政治の終焉」みたいなことを書いていた。数の論理と利益誘導による多数派工作、金権政治・・・そういうもののシンボルのように扱われていた。あまりその死を悼むという論調ではなかった。
ま、そうだろう。
しかし、私はなぜか個人的にはこの人の語り口が好きだった。
「ま、・・・だわな」というあれである。
この人には政策というものがなかった。あるいはあるべき日本の未来についてのヴィジョンとか聞いたことがない。(なにしろ「ふるさと創生」だかんね)
しかし、この人は政治の根本というものを直観的に理解していたのではないかと私は思う。
「政治の根本」とは何か。
それは「多数派の形成」ということである。
私は「多数派の形成」をめざさないものを政治とは認めない。
既存の社会制度の全体を否定するような立場であれ、その立場への支持者をひとりずつふやしていって、ついには多数派を構築するところまで展望すべきである、と私は思う。
「突出したケルン」や「フォロワーなき前衛」のようなものは「政治的には」無意味である。それは思弁の運動、文芸の運動としては興味深いものではあるだろうけれど、私はそれを政治のカテゴリーにはカウントしない。
政治的なトピックについて語ること、ある種の政治的オプションをつよく主張するひとを私たちはうっかり「あ、政治的なひとなんだ」というふうに思ってしまう。
それはちがう。
政治的なトピックについて語りながら、ある政治的オプションの意義を語りながら、その言葉をつうじて決して「多数派の形成」を目指してはいない人間はたくさんいる。
じゃあ、その人たちは誰に向けて語っているのか。
「論敵」に向かってである。あるいは「論争」のレフェリングをしてくれる「同業者」に向かってである。
彼らが夢中になっているのは、ある狭い業界内における知的威信やヘゲモニーやヒエラルヒーを賭けた「内輪の争い」である。
そのような水準で競争に勝つことと、多数派を形成することはまるで別のことである。

70年代の政治党派はみんな「競争相手に勝つ」ことを政治と錯覚していた。
あのころの政治党派が間違っていたのは、「闘争を領導する党派」と「導かれる大衆」を二元化し、「党派」が複数並立していることが大衆闘争の立ち上げを妨げているのだから、自分以外の党派をぜんぶ「始末」してしまえば、一元的に「大衆」を統括できるようになる、と考えたことである。(とほほ)
「操作する側」と「操作される側」に人間たちをまず二分し、ついで「操作する側」における競争相手を排除することで、「操作する」権利を独占できるという彼らの考え方はまったく間違っていた。
たしかに競争相手に勝つと、一時的には小さなマーケット(** 大学の自治会、というような)を占有することができる。しかし、この小さな専制党派に対して敬意や信頼をよせるものはそんな小さなマーケットにさえほとんど存在しなかった。
学生たちの多くは自治会を空洞化することで(「いまから学生大会? しらねえよ、バイトなんだよ、おれは」)党派の夜郎自大を嘲弄していたのである。
これらの「政治」党派の誤りは、最初に無自覚におのれを「操作する側」だと思いこんだところに始まる。
「操作するもの」は絶対に多数派形成に失敗する。
なぜなら、「大衆操作」においては、操作するものができるだけ「少ない」ほうが効率がいいからだ。
完全な上意下達の軍隊的指揮系統こそが「操作」の理想である。(いろいろな矛盾する指示がわけのわからない部署から出てきたんでは「操作」できないからね。)
操作が完璧であるためには、ピラミッドの頂点が「点」であることが必要だ。つまり、「操作する側」に立とうと望むものは、「おのれ以外の全員を潜在的な敵とみなす」発想をとるほかないのである。そうしないものは結局誰かにこき使われるだけである。
こうやってあらゆる「政治」党派は無限の分派闘争のうちに離散してゆくことになる。
この愚を避けるためには、出発点を変えるしかない。
「操作する側」と「される側」という二分割を断念して、「みんなでいっしょにやろうよ」というフィクションに賭けるのである。
「みんなでいっしょに」これが多数派形成、ということである。
多数派の形成というのは、競争に勝つことではない。むしろ競争を「しない」ことである。(だって、いちばん簡単な多数派形成工作は、当面のヘゲモニー争奪戦の「敵」と合体しちゃうことなんだから)
70年代のはじめころ、私がこの種の提案をすると、党派の兄ちゃんたちは、いつも「ずぶずぶの組織拡大路線」といってさんざんに批判してくれたものである。(うー、思い出してだんだん怒りがこみ上げてきた。)
私は自分を検証ぬきで「操作する側」に置き、他人をかってに「大衆」と呼んで怪しまない、党派の兄ちゃんたちの無神経にずいぶん腹を立てた記憶がある。おいらも君もみんな「大衆」ということでいいじゃないか。みんなバカさの程度はどうせ似たようなもんなんだから。
なんてことを言ったので、私はそういう世界からかなり暴力的な仕方で追い出されてしまい、そのごとんとご縁がなくなった。
で、はなしは戻るけれど、竹下さんという人は、「とにかくみんないっしょになろうよ」ということをおそらくは唯一の政治課題として生きた人ではないかと思う。「いっしょになって何をするのか?」ということはおそらく彼にとって二次的な問いにすぎなかったのだろう。
バカじゃないか、というひともいるだろう。だからだめなんだよ、何をするための同盟なんだよ。
いや、別に、何もないんだよ。ただ同盟したら、楽しいかなと思ってさ。だめかね。
だけどさ、そういうあなただって、結婚するときには「とにかくいっしょになろうよ」ということばかりしゃべっていて、「いかなる社会的課題を果たすために結婚するのか」というようなことはあまり話し合ってなかった、と私は思う。むしろ「結婚したら *** なことをしよう」というような提案は相手を口説き落とすために必死で「構想」したものでしょ?
目標というのは、いつだって集団を形成するために「あとづけ」にされるものであって、あらかじめ存在する目標を実現するために集団が形成されるわけではないのだよ。
結婚と国政は違うよ、とあなたは言うかも知れない。
違わないね。
政治は多数派形成だということを忘れているから、「おじさん」たちは「妻―娘」連合軍にさんざんにいぢめられているのだよ。
三人いたらそこはもう社会集団。政治の本質はどのサイズの集団でも変わらないと私は思う。