6月20日

2000-06-20 mardi

大学院の演習「日本文化論・論」は、歴史修正主義関係の文献をこれまでいろいろ読んできた。(ドイツの歴史家論争、ロベール・フォリソンの「ノン・ホロコースト」論、『マルコポーロ』廃刊の原因になった「ガス室はなかった」論、西尾幹二の『国民の歴史』、藤岡信勝の「自虐史観」批判、など)
その仕上げとして、高橋哲哉『戦後責任論』を取り上げた。
この中で高橋は「自由主義史観」を批判している。
そのロジックは平明だし、健全である。
にもかかわらず、私は「ちょっと違うんだけど・・・」という感触を払拭し切れなかった。
高橋は「南京虐殺」や「従軍慰安婦」についての「戦後責任」を私たち日本人が負うべきであることを主張している。
その主張は正しい。
けれども、ここで高橋は「真相の究明」ということと、「アジア民衆との信頼の回復」というふたつのことを一続きのみぶりとしてリンクさせて、「真相の究明」のあとにはじめて「信頼の回復」が成り立つと考えているように思われる。
それは違うのではないか、と私は思う。
「真相の究明」は半世紀以上前に起こった「歴史的事実」の当否の検証にかかわる議論である。
ほんとうは何が起こったのか、それを究明することはとても大事だ。けれども「ほんとうは何が起こったのか」を明らかにすることは原理的にはできない。
文書資料のあるものは散逸し、あるものは曖昧で一義的な「解釈」を許さない。証言の多くは主観的なバイアスがかかっている。
高橋も西尾も相手に対して、「資料を自分の利害に引き付けて読み、それぞれの都合によって、ある証言を真とし、ある証言を偽とするという恣意的な歴史解釈を行っている」という非難を応酬している。
現に、それぞれが「信頼性のある」資料や証言とするものに基づいて、西尾や藤岡が再構成した「過去」と高橋が再構成している「過去」はまるで別のものになっている。
資料や証言の「妥当性」についての評価がそれぞれ違うのだから仕方がない。
どちらが「より説得力があるか」という比較は可能だ。
けれども、どちらが「真実か」を言うことは、たいへんにむずかしい。
だからこの種の議論はトリヴィアルな資料批判のおわりない「水掛け論」に終わる可能性が高い。(現にそうなっているように)
何年もかけて議論すれば、あるいは資料批判について両者のあいだで、ある程度の合意が成立するかもしれない。成立しないかもしれない。成立しなさそうな気がする。
私は別に歴史的過去の再構成についてシニックになっているわけではない。
そういう仕事は大切だ。
けれども「何よりもまず真相究明が果たされねばならない」というふうには考えない。
その理由を書く。ちょっと長いけど。

フロイトはヒステリー患者の18例の聞き取り調査の結果、彼女たちの多くが幼児期に性的な「虐待経験」を受けいているという「事実」を発見した。そして、勇躍、「ヒステリーの原因は幼児期の性的暴力のもたらした外傷である」という学説を発表した。
しかし、その直後から、フロイトは患者たちが告白した「過去」の信憑性を疑うようになった。それらの外傷は「事実」ではなく、「幻想」だったのではないか、とフロイトは考えるに至ったのである。
フロイトの偉いところは、「なんだ、事実じゃなかったのか」と放り出さずに、外傷経験の主体にとってはそのような経験が「事実」として生きられているということの重要性を、客観的な事実性とは「別の水準」で認知したところにある。
歴史的事実がどうであったかのかを過去にさかのぼって再構成することはたいへんに難しい。しかし、たとえば数十年間、幻想的な外傷経験を、ある人が「自分の経験として生きた」のであれば、その歴史的淵源は事実であるかどうか、ということは二次的な重要性しかもたない。
だって、その「傷」はまさにその人によってリアルに生きられてしまったからである。
そして、その幻想的な外傷によって現に神経症の症状が起きている以上、「そんな経験、あんた、してないんだよ」と言っても始まらない。
その外傷経験を言語化し、患者と分析家がそれを共有し、公共化し、「説明の文脈」のうちにきちんと収めることによって外傷が癒されるのであれば、極端な話、「事実」なんかどうだっていいじゃないか。
フロイトはそう考えた。私もそう考える。

私たちの人生の岐路に存在する「決定的経験」というものについて、その当事者がまったく異なる記憶を有していることがある。
私事で恐縮だが(って、ぜんぶ私事なんだけど)、私と平川克美君の「歴史的出会い」についての記憶は私と彼では全く違う。
その話しをしよう。
平川君によれば、私が彼の学校に転校してきた直後に、クラスのボスであった平川君が私を校舎裏によびだし(これはほんと)、「タイマン」勝負をして、私たちが引き分けて、その日から「五分の盃の兄弟分」というものになって、二人でクラスを仕切った、という話になっている。
私の記憶では、平川君は無慮10名近い「子分」を従えて登場した。ご本人はもちろん、ゴリマンとか(その名も恐ろしい)番格の子は出てこないで、いちばんちびだった三浦君を私にぶつけて、私がさんざんにうち負かされて半べそをかいているところで平川君が止めに入り、「なかなかいい根性をしているので、兄弟分にするぞ」と勝手に宣言したのである。(平川君の子分たちはこの「えこひいき」にびっくりしていた。)
話がまるで違う。
しかし、私と平川君の「公的歴史」は平川説を採用することになった。(私だってそのほうが他聞がよい。)
というわけで、平川君の「自己史」の転轍点には、事実としては存在しなかった「内田との歴史的タイマン」というものが燦然と輝いているのである。(私のひみつの自己史には「平川君の宿命的なえこひいき」というものが燦然と輝いている。)
しかし、そのような「運命的な出会い」の(それぞれの)「幻想」を私たちは40年近く「生きて」しまったのである。その果てに、私はビジネス・カフェ・ジャパンの株主というようなものになって、スーパーリッチな晩年というものを約束されているわけである。(て、これも幻想か)
じゃあ、本当はどうだったのだ。ということでその場にいたはずのゴリマン君や三浦君を呼び出して、1961年の9月の出来事について記憶を糺しても、彼らだって何も覚えてはいまい。覚えるほどの事件ではない。そんな出来事は小学校では毎日あったんだから。
それがたまたま記憶されたのは、その事件そのものの衝撃によってではなく、私と平川君が仲良くなった「あとに」、ぼくたちが最初に会ったのはどういうときだったっけ、という遡及的な問いが立ち上がったためである。だから、「そのあとに」仲良くなる、ということがなければ、二人ともその出来事について断片的記憶さえとどめていなかっただろう。
記憶というのは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではない。
その出来事が「そのあとの」時間のなかでもつことになる「意味」の強度によって選択されるのである。
私たちは、それぞれにある記憶を選んだ。いずれの記憶がより事実に近いかを判定する権利は平川君にも私にもない。けれども、私たちはある出来事を「記憶する」という仕方でアドレッサンスの起点標識を打ち立てた。そして、その後、私たちは愉快な冒険の日々を共有することになった。その40年にわたる生活のリアリティは、歴史的事実がどうあれ、いまさら取り消すことはできない。
そういうものである。
アメリカでは「幼児期の性的虐待」について、カウンセリングの過程で「抑圧された記憶」が蘇り、両親や兄弟や親族を「性的虐待」で告訴する事件が相次いでいる。
これについて『抑圧された記憶の神話』という書物は、そのようにして思い出された記憶のかなりの部分がカウンセラーの誘導によって外部注入された「偽装された記憶」ではないか、という疑念を投げかけている。人間の記憶力を操作することは想像する以上に簡単なことなのである、と「偽装記憶」の専門家である著者は書いている。

話の深刻さはずいぶん違うけれど、戦争体験のような激烈な経験をしたひとの中には、その後の人生において、「他者の経験」を、あるいは「伝聞した経験」を、あるいは「幻視した経験」を、自分の経験としてリアルに「生きてしまった」ひとだっていたはずである。
私はそのひとがなんらかの利己的な目的で、自己や他人を「欺いている」とは思わない。
他者の記憶をあるいは幻視された記憶を取り込むというのは、「記憶の共同化」という聖なる作業であるからだ。
この「記憶の共同化」をつうじて、はじめて共同体というものは立ち上がる、と私は考えている。実際は経験したことのないカタストロフや、危機や、痛みや、恥辱を、「わがもの」として引き受けるような感受性が私たちには備わっている。
それは誰かを「騙す」ための装置ではなく、私たちが共同的に生きるための、他者と「折り合って」生きるための、とても重要な能力なのである。
戦争責任の問題について、もう一度立ち戻るけれど、おのれの戦争責任や目撃証言を「カムアウト」したひとたちのなかに、事実ではないことを語っている人はおそらく少なくない。
しかし、事実ではない経験を事実として記憶してしまったことは十分に根拠のあることなのだ、と私は思う。そのようにして個体から個体へと「伝達」してゆかねばならないような共同的経験というものが存在するのだ。
戦争経験で外傷を負ったひとびとは、そのような「経験の伝え手」であると私は思う。
そこで語られることについて「真相はどうなのだ」「証拠を見せろ」などといちゃもんをつける人たちは「厳密性」とか「客観性」とかいう名のもとに、ほんとうに聞き取るべき情報を聞き逃しているのではないだろうか。
フロイトのヒステリー患者がそうであったように、そのような「外傷の物語」をリアルに生きてしまったひとにとっては現に「外傷」は激しく痛むのである。ことの「真相」の究明は、その外傷を癒すこととは別の水準の問題である。
真相の究明をまってはじめて外傷経験の癒しが始まる、というふうに私は考えない。
私は歴史的事実の究明という「過去指向」の作業とは別に、信の回復という「未来指向」の作業があるべきだと思う。
信の回復とは、「外傷経験」が「何を言おうとしているのか」を聞き取るということである。
それは検察的な仕事ではなく、もっと忍耐強い、柔らかい仕事のように思う。

「真相の究明」は検察官の仕事だ。そして、検察官の仕事は「邪悪なるものと無垢の被害者の物語」を作り上げることである。
私は「戦後責任の引き受け」というのはそのような検察的な作業であってほしくない、と考えている。
その点において、私は高橋とずいぶんかけ違ってしまう。
私は「検察官」になりたくないのである。
高橋はおそらく自分に大義名分があって、相手を告発しているときでさえ、にこやかなほほえみをたやさないタイプの人間なのだろうと思う。(一度会ったことがあるけれど、そういう感じのひとである。)そういう自分に自信があればこそ、告発の言説を語り出すことを厭わないのだろう。
私は違う。
私は自分に大義名分があるときに、反論の余地のない証拠をならべて「被告」を告発するとき、自分がどれくらい残忍で、どれくらい権力的な野郎になり果てるか、熟知している。
まるでちがうよ、問題は「告発すること」ではなく、「他者からの審問を引き受けること」なんだ。「告発されることをいさぎよく受け入れる」ことができるかどうか、それが論じられているんじゃないかと反論するひとがいるかもしれない。
ちがうね。
「審問」というのは「誰から誰に」(「アジアの民衆」から「植民地主義的関係性を清算できていない日本人全員へ」)というような問題ではなく、言説の「形式」のことである。それは「ゲームのルール」である。
審問の言語を受け入れる者は、たとえ、「審問される側」においてそれを聞き取る場合でさえ、瞬間的に立場を変えて「審問する側」に反転できる。(岡真理が上野千鶴子にしたように)
というか、「審問の言語」以外では思考することも経験することもできなくなってしまうのである。
それは「勝ち負け」の言説や、「停滞と乗り越え」の言説や、「革命か反動か」の言説や、「健常と異常」の言説や、そういうものと同じである。
いちど、その言葉遣いで話し始めたら、あとはそれを繰り返すしかない。
それは、本人にとっても周りの誰にとっても不毛で悲しい営みだと私は思う。