6月1日

2000-06-01 jeudi

半ドンなので、ソッコーで家に帰って、たまった洗濯ものを片づけ、掃除をして、アイロンかけをする。
家の中がきれいになると主夫としてはたいへん満足である。
青空と青い海を眺めながらコリン・デイヴィスの訳稿をこりこり続ける。

デイヴィス君とはほとんどの点で気が合うのだが、レヴィナス先生がデリダの批判を真摯に受け止めてその思想を深化させたというくだりだけがどうも納得できない。
たぶん思想史的事実としてはそうなのであろうし、そうするとレヴィナス思想の展開がクリアカットな図式になじむというのも間違いないのだろうけれど、なんだかそれではこっちの気持ちが片づかないのである。

私のレヴィナス思想理解は、「レヴィナス先生は完璧な思想家だ」という前提から出発している。
これは事実としては間違っている。
無謬で完璧な思想家なんているはずがない。
そんなことは誰に言われなくても、私自身が熟知している。
しかし、そういう危うい前提から始めないと先へ進めないということがある。
「お師匠さまはとにかく偉い」という信憑の形式が知性の怠惰を帰結するということももちろんあるだろう。
しかし、そういう「私」の理解を超えたパーフェクトなもの、を想定することでしか獲得できない知見というものもまた存在するのである。
このへんの見極めは非常にむずかしい。

私にとって緊急な仕事は、とりあえず自分に固有のフレームワークを壊すことである。
自分の枠を壊すためには、別の何かに「帰依」するというのが捷径である。
だからといって誰でもいいから通りすがりの人をつかまえて、とりあえず信心すればいいというものではない。
レヴィナス先生はフッサール、ハイデガーに師事したけれど、彼らを完璧な師とみなすことはなかった。
レヴィナス先生が「レヴィナス先生」になったのは、ラビ・シュシャーニという放浪の律法学者を見出して以後である。
その師から「タルムードにおいてはすべてがすでに思索し尽くされている」という壮大なフィクションを「学習」することで、レヴィナス先生はその殻を破り、先生自身が「師」となったのである。
物語の力は、物語を語り継ぐものと、それをさらに語り継ぐものの出会いを通じて爆発的に発揮される。
それは例えば植芝盛平先生と出口王仁三郎師のあいだに起きた出来事にも類比される。
このあたりのことをまだうまく表現できない。

答を求めて嘉納治五郎著作集・講道館柔道篇を読む。
いつ読んでもすごく面白い。
「柔道講義」を座右の書として読んでいる柔道家というのがいまどれくらいいるのか私は知らない。彼らはそこに書かれている嘉納先生が柔道の「現状」に向けて語ったほとんど悲痛な言葉をどう受け止めているのだろう。

嘉納先生は昭和5年ころに「精力善用国民体育」という形の体系を制定された。
体捌き、手捌き、突き、蹴りなどからなる単独動作、相対動作に十の組み手の形からなる体系である。組み手の形は合気道の形に少し似ている。
嘉納先生は、乱取りをする前に、まずこの基本の形を繰り返し行い、そののち乱取り、制定形をバランスよく習得することを力説している。とくに試合における勝敗にこだわる当時の講道館の風潮が身体ののびやかな運用を鈍磨させることに強い懸念を示していた。
乱取りは幕末のころ「請けの残り」という考え方から始まった、武道史的にはごく最近の訓練法である。
嘉納先生はたまたまこの「請けの残り」を重視した天神真楊流と起倒流を学ばれたので、はやくから乱取りの効用に着目されたのだが、それがごく近年の工夫であること、修業法としては形と相補的なものであり、乱取りだけでは柔道が成立しないことを「柔道講義」の全編で繰り返し主張している。
そして晩年に独力で「精力善用国民体育」という基本形の反復練習をすべての稽古の基礎にする新しい柔道稽古法を確立された。この思想と技法は現代柔道にどう継承されているだろう。そしてまた武道書として格調高く、かつ技法論としてもきわめて優れたこの「柔道講義」のような本が岩波文庫にも収録されていないのはいったいどうしてなのだろう。
いろいろ謎の多い書物である。
合気道部の諸君はできるだけ読んでおくことをお薦めします。

嘉納治五郎著作集・柔道篇

と悩みつつ、藤平光一先生の『気の確立-中村天風と植芝盛平』を読む。
塩田剛三先生も藤平光一先生も伝説的な合気道家であり、偉大な先達であることは誰しも認める。けれども、この方たちの書くものは(例えば嘉納先生のものを読み比べると)申し訳ないが「気品」において次元を異にしているといわざるを得ない。
こういうことを書くと、怒る人がいるかもしれないから、あまり言いたくないけれど、武道家が自分はどれほど強いか、どれほど高い境地に達したかということをとくとくと書くのは、私の審美的基準からするとかなり「恥ずかしい」ことである。
事実だからいいじゃないか、という方もいるだろう。
そう、事実だからいいんです。変な謙遜をする必要はない。
ただ、読んでいて私は恥ずかしかった、というだけのことである。
嘉納先生は自分がどれくらい「遣えるか」ということを一行も書いていなかった。
ただひたすら講道館柔道は「未完成である」ということだけを書き続けていた。
おそらく、柔道の完成に急で、自分の技量について語っている暇がなかったのだろう。

などといいながら、下川正謡会のお知らせ

下川正謡会大会
6月4日(日)午前九時半始メ

湊川神社神能殿(JR神戸駅下車たらたら歩くと徒歩3分、地下鉄高速神戸下車必死に走ると30秒)
麗春の候、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。
さて、恒例の下川正謡会大会が上記の通り開催されます。例年は10月の開催でしたが、今年から6月に繰り上がりました。
今回は素謡『小督』と仕舞『安宅』で四度目の能舞台を踏ませていただきます。
素謡の出番は朝9時半ですし、仕舞もへたっぴなので、私のことはご放念頂くとして、昼過ぎくらいにゆるゆるとお出でになって能『松風』、小川さんの舞囃子『天鼓』、下川先生の番外仕舞『藤戸』などをごらんになるのが賢明かと拝察します。
湊川神社の緑の葉陰で初夏の涼風になぶられつつ能楽鑑賞のひとときをすごされるのも、なかなかにシックな日曜日のあり方ではと愚考する次第です。
みなさまのご来駕を拝してお待ち申し上げます。