5月26日

2000-05-26 vendredi

K談社のKさんと三宮で歓談。
たいへんフレンドリーで熱情的なエディターであった。
Kさんは『現代思想の冒険者たち』シリーズの編集者。ここ数年、現代思想の本を読み続けてきて、いささかストレスがたまってきたところに、『現代思想のパフォーマンス』に出会ってその読者に対するなりふりかまわぬ「サービス精神」にびっくりされて、こういう本を書き、怪しげなホームページをせっせと更新しているのはいかなる人物であるか好奇の念にかられて、出張ついでの神戸でご歓談というはこびになったのである。
三宮の香港飯店で飲茶。生ビールをくいくい飲みながら、レヴィナスについてデリダについて信仰について神について哲学の未来について、熱く語り合う。
熱く語っているうちに、勢いでレヴィナスの入門書を書く約束をしてしまった。
コリン・デイヴィスが終わって、せりか書房の方が終わって、『困難な自由』の改訂訳が終わってからさらに先の話なので、あまり現実感はないけれど、とにかくまた仕事をふやしてしまったことは確かである。
しかし、「来るオッファーは拒まない」というのが私の基本方針であるし、「仕事の依頼があるうちが花」ということもあるしね。
ほんとうは『現代思想のパフォーマンス』をK談社学術文庫化してもらって、ぼくと難波江さんは「文庫版のためのあとがき」だけ書き足して、印税でバリ島というような夢を一瞬は思い描いたのだが、そういうことではありませんでした。

小川さんが研究室にきて、今年も学振の応募の季節だという話になった。
ついでに、「君の論文にはメッセージ性が足りないね」と言ったら、片づかない顔をしていた。
言葉が足りなかったようだ。
メッセージ性というより、「パフォーマンス性」といったほうがいいだろうか。
学術論文というのは、客観的なレフェリーがいて、それが公平な成績査定を行う、という共同幻想のうえに書かれているが、もちろん、それはバーチャルであって、実際にはそのようなことはなされていないし、おそらくなされるべきでもない。
私は学術論文は、美術や文学や映画と同じような「作品」だと考えている。
作品を展覧会や映画祭に出品したり、文学賞にアプライして、そのレフェリーたちの審査を受けることは、作家にとって作品のクオリティを反省するうえでのひとつのめやすにはなるだろう。
しかし、審査員たちが作品の出来不出来についてあれこれ議論している「密室」は、作品の「本来あるべき場所」ではないと私は思う。
作品の「本来あるべき場所」は、不特定の観客=読者の前という「オープンスペース」である。
そこでの拍手(とブーイング)の音量、好意(とそして悪意)の強度、作品をめぐる評価の喧噪にさらされ、気まぐれなサポーターと執念深い批判者に翻弄されること。
そこに作品の栄光と悲惨はある。
ロック・ミュージシャンで「日本経済新聞」の「今月のレコード評」に一喜一憂するひとはいないだろう。それは彼らが自分たちの音楽のレフェリングはどこでなされているかをよく知っているからである。
学術論文の場合だってそれと同じである。
論文が、泡立つオリジナリティと形式的な端正さをともに備えていることを求められ「作品」であるかぎり、それが本来あるべき場所は、論文の完成度の査定を行う役人や学者たちの前ではなく、誰も知れぬ、どこにいるかも分からない、不可視の「読者たち」の前である。
作品の入手のために対価を支払い、それを繰り返し玩味し、そこに癒しと愉悦を見出すような読者たちの前に作品は差し出されなければならない。
作品を批評家のために書いてはならない。作品は読者のために書かれなければならない。(だって、ほっといたって批評家は悪口を言ってくれけれど、ほっといたら「読者」はぜったい読んでくれないからね。)
そのことを私は言いたかったのですよ。
自分と同世代の、同じような感覚と臆断を共有する読者たちへ向けて、「熱く」語りかけること。彼らを挑発し、同時に、彼らに知的快楽を提供すること。それがパフォーミング・アートとしての学術論文の真正なあり方ではないのだろうか。
そのことを私たちの業界のひとはあまりに軽んじていると私は思う。
というわけだ。小川さん、「熱いの一丁」お願いね。