5月26日

2000-05-26 vendredi

K談社のKさんと今夕ご歓談の予定である。
会談に備えて、どろなわで高橋哲哉『戦後責任論』を読んで予習する。
書いてあることはすごく正しい。
学級委員的に正しい。
学級委員が「君たち、静かにしたまえ」ときびしく叱責しているのだが、クラスの悪ガキたちは誰も言うことをきかないで、教室じゅうを走り回っているときの学級委員の苦々しさ的に正しい。
女子の学級委員が、怒りにふるえる彼の端正な横顔をみつめつつ「ああ、素敵なお方・・・」とためいきをつくのがよく分かる。
勉強のできるひとたち、規則をきちんと守るひとたちにとっては、とても頼りになるリーダーだ。
でも、勉強もできないし、規則もまもらないし、徒党を組んで悪さのかぎりを尽くすことに人生を賭けているバカガキたちは「うっせーな」というだけで、ぜんぜん相手にしない。
そういうポジションにいる、ということについて高橋君には「これでは、ちょっとまずいかもしれない」という自覚があまりないように思われる。
「ぼくの正しさをわかってくれるひとたちだけに話すね」というスタンスだと、オーディエンスがだんだん少なくなってくるのではないだろうか。(ドイツやフランスでオーディエンスを増やしても、あんまり意味がないように思う。)
もちろん「正しい」ことをあくまで筋を通して語り続けるというのは大事なことだし、勇気のいることだ。
でも、それだけでは足りないと思う。
加藤典洋と藤岡信勝を「ネオ・ナショナリスト」というふうにひとくくりにしてしまうのは、学級委員的な潔癖さの現れだと思う。
でも、加藤と藤岡はぜんぜん違うよ。
藤岡と対話するのは困難だろうと思うけど(バカだから)、加藤と違和を超えて対話できないはずはない、と私は思う。
そこに生産的な対話を成り立たせるには、どのような語法を見出すべきなのか。
これは私にとってもたいへん切実な思想的課題なのである。
私の場合は、たぶん「へらへらした語り口」を選び取るということになるのだろうけれど、これは気質の問題ではなく、熟慮のすえの思想的な態度決定なのである。(私は決して「へらへらした野郎」ではない。どちらかいえば「かりかりした野郎」である。)
でも、なんで「へらへら」になるのかを説明するのはとてもむずかしい。