5月11日

2000-05-11 jeudi

17歳の娘との家庭内対立が深まっている。
だって、あんまりなんだもん。
先週は学校さぼって岡山までライブを見に行った。
それは許してもよい。暑い日なかに対校戦の応援なんかのために伊丹まで行くのがいやだというのは分からんでもない。
しかし、なんとなく眠いから今日は休む、とかなんとなくたるいから今日は遅れていく、とかいうことを無原則にされていると、親としてはだんだん不愉快になってくる。
今朝もそうだった。
なんとなく面倒らしく、学校にいかずに朝食のあと部屋にもどってまた寝ている。
ほっておけば、また夕方まで寝ているつもりなのだろうか。
学校が嫌いなのは分かる。私も嫌いだった。
勉強をしたくないのも分かる。私もしたくなかったことがある。
眠いのも分かる。私も眠い。
しかしね、何かがいやだ、という以上は、それに代わるものをもっと真剣に探し求めるべきではないかね。
学校が嫌いなら、学校以外の「どこか」をなぜ探そうとしないのか。仕事をしたければ、仕事をすればよい。漫画家になりたいというのなら、漫画家さんに弟子入りすればよい。ロック・ミュージシャンになりたければ貸しビデオ屋の店員になればよい。
私は「世間にみっともないから高校にちゃんと通ってくれ」なんてひとこともいってやしない。
どの選択肢をとろうと、私は物心両面で応援する用意があるといっているのである。
だからちゃんと目的をもって生きてくれよ、と頼んでいるのである。
それに対して、ドアをがちゃんと閉めて黙ってでてゆくという法があるかね。
たしかに自立の「欲望」だけがあって、自立の「能力」がない、という矛盾にいちばん苦しんでいるのは17歳のご本人なのかもしれない。
だけどさ。能力の開発というのは力仕事だぜ。毎日、ちょっとずつ訓練するというしかたでしか、どんな能力も開発されない。
それは今すぐ、この瞬間からでも始められることではないのかね。
いや、これも無意味な詰問だったかもしれない。
その昔、兄ちゃんが私にむかってつくづくつぶやいたことがあった。
「たつるよ、おまえは自分は勉強ができて、兄ちゃんは勉強が出来ないと思っているだろう」
「うん」
「たつるよ、それは違うぞ。『勉強ができる』というのはね、『勉強をする気になれる』ということと同義なのだよ。おまえは勉強をする『気になれる』が、兄ちゃんはどうやっても勉強を始める気分ではないのだよ。分かるか。」
「だったら、勉強する気になれるように努力してみたら?」
「バカだね、この子は。努力というものが『できない』人が勉強ができない人なのだよ。すべては同語反復なのだ。勉強できない人間というのは、勉強なんかどうでもいいと思っている人ではない。勉強をしなければいけないということが分かっていて、それでいて机に向かうことができない人なのだ。努力ができない自分をもっとも憎んでいるのは努力ができないそのひと自身なのだよ。分かるかね」
「ふーん。なるほど。ね、兄ちゃん。悪いけど、勉強のじゃまだから、話のつづきは今度きかしてくれる?」
兄ちゃんのいうとおり、こういうものには原因とか説明とかいうものはない。何かができるというのは、そのための努力ができるということであり、何かができないというのは、「それができるようになるための努力」をすること自体ができないということなのである。
るんちゃんは自立ができない。それは今のところ「自立のための努力をすること、そのものができない」というかたちをとっている。その人に向かって「せめて努力している姿勢をしめせ」というのは、おぼれている人間にむかって「まず泳ぐ努力をしてみなさい」というのに似ている。泳げないからおぼれてるのに。
ま、いいよ。おいらはものわかりのいい父だからね。
17歳の苦しみを忘れたわけじゃない。
でもさ、せめて「ただいま」と「いってきます」と「おはよう」と「おやすみ」と「いただきます」と「ごちそうさま」だけは言おうよ。
もう、それ「だけ」でいいから。