5月8日

2000-05-08 lundi

17歳の犯罪が連続して起こった。
原因はいろいろだろうが、それらの現象を貫通するものが少なくとも一つあるように思う。
それは「社会制度一般」に対する攻撃的なまでの軽侮の念である。
それについてなら私も分かる。
私の17歳のときと同じだからである。
私は17歳のときに高校をドロップアウトして家を飛び出した。
よく考えると不思議なのだが、別に私は家にも高校に具体的に何か際だった不満があったわけではない。
私の家庭はそれまでの私の(かなりふまじめな)生活態度に対して基本的にかなり寛大であり、ほとんど無干渉であった。学校そのものは冷静に評価すると1967年時点で考え得る範囲でもっとも制約の少ない気楽な学校だった。
にもかかわらず、私は家が私の自由を損なっており、高校は牢獄だと思い込んでいた。
私があらがっていたのは具体的な内田家や日比谷高校ではなく、抽象的な「家庭」と「学校」という観念に対してであった。
今から思うと、少年の暴力的な抽象観念の犠牲となった内田家のみなさんや高校の先生方にはたいへん申し訳なく思う。
しかし、どうしてそういうことになったのであろうか。
理由ははっきりしている。いまでも鮮明に覚えている。
17歳のある日私はいきなり「世界」を一望できるような包括的な視座に立ちたいという強烈な欲望に襲われたのである。
それまで「内田のたっちゃん」という生身の身体と物語をもった具体的な生活に首まで浸かってきた少年がいきなり「世界を一望する非人称的な視座」、いわば「ラプラスの魔」の視座を欲望するのである。これはとんでもないことである。
吉本隆明風に言えば、「大衆」から「知識人」へ一気に所属階級を変更しようと私は望んだのである。
世界を一望したい。しかし、哀れなことに17歳の少年は「世界」をほとんど知らない。
知らないけれど、「知っている」ことにしないとこのシフトは成就しない。
しかたがないので少年は「世界には知るほどの価値のあるものはない」と断定することになる。
私はニーチェを読み、マルクスを読み、フロイトを読んだ。
子どもの直観は馬鹿にできない。
この三人は17歳の「ウッドビイ知識人」にとってはこれ以上ないほどのベスト・チョイスあったからである。
彼らは三人とも「世の中の常識というものは全部幻想である」と書いていた。
社会制度を成り立たせているのは、ニーチェによれば「愚かさ」であり、マルクスによれば「ブルジョワ・イデオロギー」であり、フロイトによれば「リビドー」であった。
17歳の私にとってはどれでもよかった。
何であれこの世の中の諸制度を成立させている根拠は「ろくでもないもの」だということが分かればよかったのである。
「17歳の危機」は、ある種の生物にとっての「脱皮」に比しうるものだと私は思う。
そのときに私たちは等身大の生活領域に居心地良くおさまっている「具体的生活者」であることを止めて、非人称的な視座から冷たく世界を見下したいという強烈な欲望に灼かれる。
それは非人間的で、傲慢で、身の程知らずで、利己的な欲望だ。
17歳には、にこやかに家族と夕食のテーブルを囲んだあと、みんながTVドラマをみている横で、『内的体験』を読むというような芸当はできない。
「けっ、ばっかじゃねーか」というような捨てぜりふとともにまこと君(17)は二階の自室に駆け上がる。
ドアをばたんと閉めながら「あいつらいっぺんみな殺しにしたろか」とふと口をついてでる暴力的なまでの「日常」の切り捨ては、「大衆」から「知識人」への「テイク・オフ」のカタパルトである。
子どもはそれなしには「もう一つ先」へ進むことができない。
「まことちゃん、イチゴ食べる?」
「ううん、いまジル・ド・レーが子どもを切り刻んでるとこだから、ここ読んだら食べる」
というような「大人の会話」ができるようになるためには、まこと君にはあと10年の修業が必要だ。
「17歳の危機」は成長の過程で多くの人間にとって不可避である。
世界をバーチャルな「一望」のもとに捕捉したいという欲望は必然的に暴力的である。
「死がどのようなものであるかをこの目で経験したかった」という17歳の殺人者の言葉はかなり正確にこの欲望のあり方を指し示している。
というのは、「死」こそは「具体的生活」のいわば極限だからである。
いかなる強記博覧の老賢者といえども「死」について実定的に語ることはできない。彼は死を経験していないからだ。
しかし、たとえ17歳であろうとも、決断さえすれば、それを自分のものとすることも、それを他人に与えることもできる。
それはポップミュージックを聴きはじめた中学生が、音楽史的知識の欠落を補うために、「もっとも新しい音楽」「あまりにマイナーであるために、ほとんど誰も知らない音楽」(したがってしばしば聴くに耐えない音楽)に対する情報感度を異常に発達させるのに似ている。
「私はまだ誰も聴いてない音楽を聴いている。いまあるジャンルの生成の瞬間に選ばれた聴衆として立ち会っている」という感覚によって、彼の「無知の哀しみ」は癒される。
「死」は17歳の「切り札」である。
17歳の私はニーチェやマルクスやフロイトのうちに人類に対する「死亡宣告」を聞き取った。
それは私にとってのバーチャルな「牛刀」であったはずである。
バーチャルな「牛刀」とほんものの「牛刀」のあいだにどれほどの距離があるのか、私にはまだよく分からない。

小田嶋隆がこの事件(5月4日)と石原慎太郎の「三国人」発言(4月10日)について、あいかわらず鋭い批評を行っている。小田嶋は、即物的な意味でも、隠喩的な意味でもおそらく一度も「高みから」暴力を行使する側に立ったことのないレアな「知識人」である。その点で、私と小田嶋はずいぶん違う。(私は殴る側、告発する側の人間であったことが決して少なくない。)その分だけ、小田嶋の批判は私には痛切である。