5月5日

2000-05-05 vendredi

連休なので、とにかく眠る。11時ころに床について、11時ころまで眠っている。
布団を蹴飛ばし、パジャマをめくりあげて、とんでもない姿勢で眠っている。こういう解放感のある眠り方をするのは久しぶりである。起きたときに軽い運動をしたあとのように筋肉や関節がゆるんでいる。三日間でのべ30時間くらい寝た。

のそのそ起き出して夕方から大阪能楽会館に「松月会能と囃子の会」を見に行く。
午前九時から午後7時半まで、というやたら長い会である。
能『融』の高橋奈王子さんの小鼓がお目当てなのだが、大トリなので出番は7時過ぎ。それまで長山禮三郎、大槻文蔵といったシテ方たちの舞囃子を堪能する。(素人会なので入場無料なのだ)
高橋さんは合気道部の創立メンバーの一人。クラブの初期の活動を支えてくれただけでなく、自治会活動や「チューリップ作戦」を通じてずいぶん本学のために尽くしてくれた偉い学生さんである。
その彼女が、卒業後、何を考えたか「能の囃子方になる」と言い出した。
古典芸能はもともとは家伝のものである。稽古の密度が違うので、素人がはたち過ぎてから始めても「上手な素人」で終わることが多い。
しかし周囲の危惧をよそに、彼女は大倉流久田舜一郎師の門下に入って数年間、ほとんどすべての時間を小鼓と能楽の稽古に割いて、とうとうこの春には若手のプロにまじって能楽養成会入りを果たしてしまった。
本格的な能を打つのは二度目のはずだが、実地に拝見するのははじめて。
予想を上回るじつに堂々たる舞台だった。たいしたものである。

学生諸君のなかには将来にいろいろな希望をもっているひとがいる。
こんなことをやってみたいのだけれど、私にできるでしょうか、とよく質問される。
もちろん私のところにそういう相談にくるひとは、相談をするというよりは、(腹はもう決まっていて)ただ最後の「一押し」を求めて来るわけなので、私は原則として「できます」と答えることにしている。
高橋さんの舞台を見て、その感を深くした。
「強く念じれば実現する。」(もちろん努力も必要だけどね)

会には鬼木先生と小川さんが来ていたので、帰り道、いっしょにカッパ横町の丸一で串カツとおでんをつつきながらビールを飲む。
鬼木先生と飲むのはこの一週間で三回目。その間、ずっと武道の話だけをしているのだが、話題が尽きない。昨日は長山禮三郎師の「立ち方」について細かい観察を語ってくれた。
鬼木先生に師事してから六年になるが、その間に(弟子の分際でこういっては失礼だが)どんどん先生の武道家としてのスケールが大きくなってゆくのが感じられる。
ひとを教える立場にいると、弟子が成長してゆくのをみるのは心楽しいものだけれど、ひとに教わる立場にいて、師匠がどんどん大きくなってゆくのを見るというのは「心楽しい」というよりは「息詰まる」ような高揚感がある。
鰯のフライをこりこりかじりながら古流伝授の意義について熱く語る先生の横顔をみつめつつ、ああよい師匠についた、としみじみ思った。
というわけで、「ものを習う」ことの厳しさと楽しみについていろいろ考えてしまった一日でありました。