4月9日

2000-04-09 dimanche

昨日はえびちゃんの結婚披露パーティ。
おひるから桜満開の岡田山の同窓会館でノン・アルコールのパーティ。
そのあとどどどと内田家へ移動して、シャンペンで乾杯したのち、持ち寄り食品の山を攻略しつつ、はげしくアルカホリックな二次会。
難波江先生、飯田先生は残念ながら一次会のみ。(難波江先生は翌日の10キロ走出場のため、休養するのだそうである。)
二次会で新郎新婦をよそに大騒ぎしているのは案の定全員合気道関係者である。
えびちゃんのパートナーになる西君は大鶴義丹をちょっと甘くして高橋克典をまぶしたような目元涼しいボ・ギャルソン。ローランド屋さんでシンセの音を作っている先端的エンジニアで、ご自分でも何枚かテクノのレコード(アナログのシングル盤!)を出しているアーティストである。
さっそく内田の「異業種リサーチ」が始まる。(どうしてかしらないけど、とにかく「異業種」のひとから仕事の話を聞くのがすきなの、私)
小川さんも交えた長時間にわたる「聞き取り調査」によって、私は現在のローランドの開発戦略、コンピュータ支援作曲活動なるジャンルの存在、テクノ・ミュージックの細分化、デジタルとアナログの音楽性の差異、クラブのDJなどについて貴重な情報を仕入れることができた。
私はDJというと大瀧詠一のGoGoNiagaraとか、今晩は糸居五郎です、とか♪ジェット・ストリーーームとか、そういう音楽におしゃべりを乗せるという放送行為しか思いつかない旧世代の人間なのであるが、最近 Cafe Opal の店主の日記をまめに読んでいるせいで、どうもDJというのが独立した「音楽活動」として認知されているということが分かってきた。
しかし、その場合、ただレコードを順番にかけるだけで、どうやって「オリジナリティ」とか「わざの冴え」とかいうものが差別化されるのかよく分からない。そのあたりのことを西君に詳しく教えてもらって、いろいろなわざがあり、わざを利かせるためには、いろいろ「仕掛け」があるということを知った。
従来の音楽活動というのは、「あっち」にアーティストがいて、「こっちに」にオーディエンスがいて、中間にはメディアとマーケットがある。
しかしどうやら昨今では、アーティストは単なる音楽的「素材」の提供者であって、DJというひとがその素材を加工して、1時間なり1時間半なりの、ひとつのトータル・コンセプトをもった楽曲ユニット(通常はダンサブルなもの)をつくって、それをオーディエンスに提供する、というやり方がある音楽ジャンルにおいては常態となっているようである。
つまり、アーティストが提供する楽曲を「まぐろ」とか「海苔」とか「コシヒカリ」とかそういう材料に見立てて、それをお客さんの前で「握って」みせる寿司職人みたいなものがDJなんですね、とお尋ねしたら、西君は困った顔をしていたけれど、まあそういうものとご理解願って大過ないでしょうというお答えであった。
これは音楽鑑賞態度としては、非常に大きな変化を意味していると私は思う。
私が60年代にポップミュージックを聞き始めた頃、レコードはシングルからLPアルバムに移行しつつあるときだった。(ドアーズのアルバム・デビューという衝撃的事件が1967年のことである)
アルバムというのは、A面の一曲目からB面の最後までがひとかたまりの単位であり、楽曲のみならず、アルバム・タイトル、ジャケット・デザイン、ライナーノーツまで含めてひとつのトータル・コンセプトによって律されており、私たちはそこになんらかのメッセージ性を読みとることを期待されていた。だから、アルバムから好きな曲だけ選び出して聴くというのは、どちらかと言えば、「邪道」であり、少なくとも、A面またはB面は一曲目に針を落としたら、最後まで通して聴かなければいけないという暗黙の了解が存在したのである。
DJという「メディア」(仲介者)はアーティストから、この「トータル・コンセプト」の決定権を奪い去ってしまう。
曲をどういう「コンテクスト」の中に位置づけるかをDJが決定するからである。
前後にどういう曲がおかれるかによってある曲の「価値」は劇的に変化する。ということは、DJというのは「一回限りのコンピレーション・アルバムのプロデューサー」だということである。
DJとは要するに「引用者」であり、そこで競われるのは「引用」のスマートさであり、「引用」の過激さだということになると、もうお分かりだろうが、これはロラン・バルトの「作者の死」のアイディアそのものである。
テクストには起源がない、宛先があるだけだ。テクストが生成するのは作家においてではなく、「引用の織物」としての読者においてである、とバルトは書いた。
私はバルトのいう「書き込む人 (scripteur)」というアイディアがインターネット・テクストにおいて実現したと『現代思想のパフォーマンス』に書いたばかりだったが、西君からDJの話を聞いて、クラブ・ミュージックというものがそっくりまるごとバルト的な理想の具現化であることを知ったのである。
ここでもまた「クリエイト」する「アーティスト」ではなく、「素材」を加工し、配列し、組み替える「ブリコルール」が主人公なのである。
そして、この「主権」の移動は、これまで「クリエイション」とか「アート」とかよばれてきたもの、コピーライトを要求し、「起源」を僣称し、「作品」についての占有権を訴えてきた「アーティスト」たち自身が、じつは先行する「ありもの」の素材を加工し、配列しなおし、組み替えていたにすぎないという「起源の神話」そのものの虚構があらわにされたことをも意味している。

というわけで西君と話をしながら、昨日はいろいろなことに気がついてしまった。
異業種の人と話すのは、このようにたいへんに生産的な経験なのである。
また遊びに来てね。