ああ、ついに学校が始まってしまった。
初日からいきなり教授会と文学部カリキュラム委員会。新年度は唐突にビジネスライクに始まった。
それと同時に春休みが終わって娘さんが東京から帰ってきた。
どがら、とドアの開く音がして、もしやとチャーハンを作る手を止めてこわごわと玄関を覗いたら、るんさんがどっこらしょと荷物をおろしているところだった。
晩ご飯食べた?
まだ。
お腹減ってる?
うん。
というわけでチャーハンは半分になってしまった。
そのままるんさんはMTVを見ながらMDを録音しながらけたたましく笑いつつインターネットでどこかのロックグループのホームページにばりばりと書き込みをしている。
あっという間に、あの静謐なリヴィングの空間は三種類の物音とるんさんの私物によって占拠され、私は書斎からも追い出された。
しかたがないのでベッドで『ロング・グッドバイ』を読む。
私は定期的に『グレード・ギャツビー』と『ロング・グッドバイ』を読み返す。
ギャツビー君はどこかテリー・レノックスに相貌が似ている。戦争で心に深い傷を負って、そのあと放蕩無頼の生活をおくるのだけれど、むかし愛した女性に対して過剰なまでに寛大であることと「礼儀正しい酔っぱらい」だという点が似ている。
彼らのことを考えると、ある種の人間はかなり堕落したあとでもなおディセンシーは失わずにいることができるということが分かる。
ハードボイルドというジャンルのほんとうの主人公は「タフでジェントルな探偵」ではなく、堕落してもなおディセンシーを失わない男なのではないだろうか。
村上春樹の小説にも繰り返しこのタイプの男たちが登場する。(鼠がそうだし、五反田君がそうだ。)
タフでありつづけるためには筋力が必要だ。ジェントルであるためには想像力が必要だ。
しかしディセントでありつづけるためには、どちらも要らない。
作家たちはおそらくこのタイプの人間が「物語を発生させる」装置だということを直観的に知っているのだろう。
現に、『ギャツビー』と『ロング・グッドバイ』と『羊をめぐる冒険』を続けて読むと分かるとおり、この非力だがディセントな酔っぱらいこそを周囲の人々を苦しめるすべてのトラブルの原因なのである。
ご賢察のとおり、どんなに酔っぱらっても礼儀正しいというのは私のわずかな美点の一つである。
(2000-04-04 00:00)