3月27日

2000-03-27 lundi

昨日、26日に多田宏先生の合気道植芝道場入門50周年記念祝賀会が東京の吉祥寺第一ホテルであった。道主植芝守央先生、本部の有川師範、藤田師範、イタリアの藤本師範らのご来賓を迎えて、多田塾門下生400人が集まり、平安の間は床が抜けそうであった。
わが自由が丘道場の先輩である山田博信、亀井格一、窪田育弘の諸師範を筆頭に、私が兄事した笹本猛、百瀬和輝、今崎正敏、岡田康太郎、小野寺親らの先輩諸氏、同期の清水良真、小堀秋両君はじめ広瀬良三、大田正史、浅井雅史、今井良晴、芥正幸、西田誠一・・・と自由が丘道場の畳の垢をともになめた懐かしい顔が一堂に会した。早稲田大学合気道会、東大気錬会の諸君とも久闊を叙した。
多田先生の会らしく、出てきてスピーチされる中にひとりとして偉ぶったり、かっこつけたりするひとがいない。全員が多田先生に対する深い尊敬と親しみをそれぞれの言葉にして語ってくれた。
参会者全員が主賓を心から敬愛している場だけで感じることのできる、格調高く、しかしとてもフレンドリーなパーティだった。
多田先生のお話の最後で、「自分はまだ小学生くらいだと思っていたら、もう七十になってしまったよ」とおっしゃられたときは満座爆笑だったけれど、ほんとうに多田先生としてはそういう実感なのだろうと思う。迷うことなく、迂回を知らずに一直線に武道を究めてきた人だけが語りうる言葉だろうと思う。
この師匠についてきてよかった、心から感じた一日だった。
本学からは林佳奈、江口さやかの新旧主将と、角田紘子(杖道会主将)の幹部三人と、札幌から田口亮子さんが出席。(しかし、田口さんはおおはばに遅刻して閉会30分前に飛び込んできた。こまったやつだ。でも二次会で、亀井先輩や小堀さんにたっぷり「説教」をしていただけたので、大喜びで帰っていった。よかったね。)

そのあと相模原の実家に帰って、老両親のご尊顔を拝してご挨拶。朝早起きだったので、ビールを呑んだらもうろうとしてきたので、9時にふとんにもぐりこんで『ビューティフル・ライフ』の最終回で木村君といっしょにうるうると涙をこぼしながら寝てしまう。
月曜日は夕方からお稽古なので、8時起き。お父上は知人の葬儀とかで喪服を着ている。
その葬儀の連絡の電話が日曜の晩にあった。そのときの両親の会話。
父「・・・はあ、そうですか、はい、承知しました。じゃ、明日10時半にお迎えに来ていただけるんですね。では、さようなら、またあした」(がちゃんと受話器を置く)「おい・・・Xさんのお母さんがなくなったそうだよ」
母「あら、よかったじゃない。」
父「うん、ぼけてたからな。寝付かれでもしたらXさんもたまらんだろ」
母「ほんとによかったわね。Xさんもほっとしたでしょ」
私は両親のこの会話を聞いて、仰天した。
「ねえ、お母さん。あのさ、ボケた老母が死んで、こどもがほっとするというのはわかるけどさ、そういうときって『まあ、こういっちゃ何だけど』とか『ここだけの話、正直なところね』とかそういう『まえふり』があってから、ようやく『死んで、ほっとしてるんじゃないの』というふうに続くもんじゃないの? いきなり『あらよかったわね』はいくらなんでも、あんまりじゃありませんか」
しかし母は私のささやかな抗議を歯牙にもかけなかった。
「あら、私は正直もんだというので、まわりから信頼されているのよ。内田さんは、絶対嘘つかないって」
そらそうでしょうよ。
ともあれ、私はなぜ自分が少年期より、多くの知友に「内田って、ほんとににべもない性格だな」といわれてきたのか、その理由を不意に理解したのであった。
同時に、この家庭環境で育った私が「二枚舌」とか「ほんねとたてまえ」の使い分けなどの高等技能の習得にそれ以後長い歳月を要したのも無理からぬことであると思う。(そして、人間は、努力によって獲得した能力については、これを最大限活用したいと切望するものなのである。)