ポストモダニストの悪口を書いたはいいが、なんとなく気持が片づかない。
私は岡真理の『記憶/物語』を批判して次のように書いた。
「ポストモダニズムはほとんど「語り口」のことだけを中心的な論件にしてきたはずなのに、なぜ自分たちの『語り口』の問題だけは構造的に見落とし続けるのだろう。(…) 岡自身、自分がどういう言葉遣いによってそのような思想を語っているかについてもう少し敏感にならなくてはならないと私は思う。」
ある命題を語る言葉遣いそのものが命題を否認していることがある。あるメッセージを伝えるメディアそのものがメッセージを否認していることがある。(私がひとに過ちを指摘されて謝るときの「すまない」という言葉遣いがそうだ。グレゴリー・ベイトソンはこれを「ダブル・バインド」と名づけた。)
私はそれと同質のものを岡の文体に感じて、「息苦しい」と文句をつけた。
けれども、この文句の付け方は、どこかで聞いたことがある。
どこで聞いたんだろうと考えていたら、思い出した。
これはジャック・デリダが1967年の「暴力と形而上学」という長大なレヴィナス論で、レヴィナス先生に致命的と思われた批判を浴びせかけたときのくちぶりをそのままなぞっているのだ。
デリダの批判は「レヴィナスの言葉遣いそのものがレヴィナスの思想を裏切っている」という言い方でなされた。
デリダのレヴィナス批判はだいたい次のようにまとめられる。
「ひとは、おのれの哲学的源泉と断絶したと思いこんでいるまさにそのときに、自分が超克しようとしている当の概念、比喩、思考習慣に寄りかかってしまう。レヴィナスもまた最終的には彼が廃棄しようと目指してきたものの正しさを確証して終わることになる。だから、レヴィナスは彼の最大の仮想敵であるヘーゲルやハイデガーにきわめて近い。彼自身がそうありたいと望んでいるよりはるかに。それも、彼がヘーゲルやハイデガーに一見するともっともラディカルなしかたで対立しているように見えるそのときに。レヴィナスが先駆者たちあらがって語り始めるや否や、レヴィナスは彼らの正しさを確証してしまうのである。」
これは反論することの非常にむずかしい批判である。
私たちは思想内容をいくら批判されてもこたえないが、思想をかたる言葉遣いを批判されるとひとことも返せなくなる。(おそらく、「文体」が、バルトに言わせれば、生物学的に刻印された私たちの宿命、私たちの「牢獄」だからである。)
「言葉遣い」についての批判に反論しようとするとき、私たちは自分が準備した反論のひとことひとことが批判の正しさを確証するような仕方でしか(つまり、その「パターン」をすっかり見透かされてしまった語法によってしか)語られ得ないということに気づくからである。
才能のある論争家はこのことを直観的に知っている。例えばサルトルがそうだ。サルトルはモーリアック、メルロー=ポンティ、カミュと、論敵たちの「言葉遣い」をあげつらって、彼らを次々と失語症に追い込んでいった。
デリダも天才的な論争家なので、これを熟知していた。そして、その「ひとの言葉遣いにひそむ裏切りの要素のえぐり出し」という戦略そのものを一個の「体系」にしてしまったのである。ものすごく乱暴に言えば、それが1970年以後、人文科学の世界での「最強の論争用ウエポン」となった「デコンストラクション」なるものである。
私は自分でも気がつかないうちにデリダの「ウエポン」を拝借して、ひとの言葉遣いのあげあしとりをしていたのである。
これは致命的だ。誰だって、次のような批判をすぐ思いつくからである。
「『語り口』だけを問題にしてきたポストモダニストがなぜ自分の『語り口』についてはこれほど無反省的でいられるのだろう」という「語り口」そのものがポストモダニスト固有のものであることにどうして内田は無反省的でいられるのだろう。
そしてこの批判もまた「・・・と語るX氏は、そう語っている自分自身が内田と同じ批判の論法を繰り返していることにどうして無反省的でいられるのだろう」というふうにいくらでも続けることができる。
これではブランショ的な無限後退だ。
「おれは自分の背中を見られるぜ」
「そういうおまえの背中を俺は見ているよ」
「というおまえの背中を俺は・・・」
うんざりだ。
止めよう。
岡さん、おいらが悪かった。「うほほいブックレビュー」で書いた悪口のことは忘れてください。
「あなたに届く言葉を語れるだろうか」というような脅迫的な構文で「教化と馴致」の語法を語っていたのはおいら自身だったのかもしれない。
すまない。(この「すまない」には反省の気持がこもっている。)
(2000-03-23 00:00)