卒業式、追いコン、謝恩会、と年度末最後の行事が一通り終わった。帝国ホテルでの謝恩会の帰りの阪急電車の中で清水先生とおしゃべりしながら
「今日からちょっとだけ春休みですね」とため息をつく。
「これで、やっと仕事ができますね」
当たり前のことだけれど、私たちは学者なので、研究をしているときがいちばんしあわせである。
教室でインプロヴィゼーションの絶頂に達したり、同僚のみなさんと大学教育のあり方について真剣な議論を交わすのもそれなりに充実した時間ではあるけれど、やはりいちばんしみじみとしあわせを感じるのは、山のように積み上げた参考文献を読み倒しながら、キーボードをばしばし打って論文を書いているときである。
学者が論文を一本書くというのは、大工さんが家を一軒建てるとか、画家が作品を一点仕上げるとかいうのと同じような達成感がある(と思う、家を建てたことも油絵を描いたこともないから想像だけど)。
論文を書いていると、しばしば時間を忘れる。
朝日を浴びて仕事を始めて、気がつくと窓の外に月がかかっている、ということだってある。
そのあいだ「どこかよそ」へ行っているのである。
自分の脳の中のある回路に入り込んでいるうちに、見知らぬ場所に出てしまう。
見たことのあるような知らないような不思議な風景なので、スケッチしたり、メモをとったりする。
するとあっちから知っているような知らないような「ひと」がやってくる。
「そのひと」と話し込む。
「そのひと」は私自身のようであり、見知らぬ人のようでもある。
「そのひと」は私が知らない不思議な術語や概念を使ってしゃべる。
でも、その言葉の意味は何となく分かる。
「そのひと」は私のことをよく知っている。
私が眼を背けてきた精神の暗部や記憶から消していたことを覚えていて、いろいろ教えてくれる。
そのことで私を責めるわけではない。
放蕩を重ねた果てに老境を迎えた人が、自分と同じ愚行を犯している年少者に応接するときのような、哀しく涼しい目で、私をみつめるだけである。
「そのひと」と話し込んでいるうちに長い時間が経つ。
そして我に返ると、あら不思議。
ディスプレイには数頁分の原稿が書き上がっているのである。
うまく言えないけれど、私にとって論文を書くというのは、だいたいこのような経験である。
それはたぶん自分の中に「私より多くを知っている賢者」というものを想定して、そのひとに私自身の知見の不足を指摘してもらう、という対話の運動を発生させることなのだろう。
知というのは実体ではない。運動である。
「知っていると想定されている主体」(sujet-suppose-savoir) を「私」の外部に想像的に構築する能力そのもののことである。
ラカンの言う「知っていると想定されている主体」というのはマンガによくある「馬の鼻先にぶらさげられたニンジン」のことである。
「ニンジン」は馬の首にくくりつけられた竿の先から糸でつるしてあるので、「馬」はぜったいに「ニンジン」には追いつけない。
でも「ニンジン」がある限り、「馬」は走る。
学者のしごとはこの「馬」よりはちょっとましである。
ときどき何かのはずみで「ニンジン」が揺れて、はしっこがバリッと囓りとれることがあるからである。
美味いんだな、これが。
(2000-03-19 00:00)