3月16日

2000-03-16 jeudi

るんさんが春休みで東京へ行った。
「青春18切符」で東海道本線でとことこ住吉から横浜まで行くという。
なんで?と聞いたら、「若いんだから、苦労をしたい」のだそうである。
偉い。
あまり偉いのでたくさんお小遣いをあげて、五時起きで朝ご飯をつくって、雨の中を住吉まで車で送ってあげた。
「がんばって自立してね、父さん応援しているよ」
というのは何となくこどもを自立させるときの言いぐさではないようにも思うが気のせいだろうか。

平川君からビジネスカフェ・ジャパンの設立発起人になってというお知らせがきた。
さっそく100万円投資する。
これでサンノゼにできるインキュベーション会社の株主になったわけである。
アメリカのヴェンチャー・ビジネスに投資している日本人仏文学者は、おそら私ひとりであろう。
ふふふ。
別にこれでお金をもうけようというわけではない。
ともだちが世界をまたにかけてビジネスをしようというのである。
「がんばってね、おいら応援しているよ」という心意気である。
もちろん株式が店頭公開されて億万長者になるのはぜんぜんやぶさかではない。むしろ歓迎すべき事態であると言って過言ではないであろう。

るんさんがいなくなって、教授会もいちおう終わったので、今日からわずか二週間だけど春休みである。
猛然と仕事をする。
休みになるとほくほくして仕事をするというのはなんだか間違っているような気がするが気のせいだろうか。
滞っていたコリン・デイヴィスの『レヴィナス入門』をこりこりと訳す。
こりこりこりこり。
英語の本だけれど日本語みたいにすらすら読める。
デイヴィス君が言いたいことが実によく分かるからである。
レヴィナス先生について書かれたものを読んでいて「そうそう、そーなんですよ」というふうに相づちをうちたくなる本を読んだのはこれがはじめてである。
デイヴィス君がめちゃ賢いのか、それとも私とバカさの程度がぴったり同じなのかいずれかなのであろう。
私はなんだか後者のような気がする。

野崎 "師匠" 次郎君から『「敗戦後論」とポストモダニズム』が送られてきた。
さっそく読む。
面白い。師匠、なかなか気合いがはいっている。
なんと私の文章まで引用されているではないか。
ひとの論文に引用されている自分の文章を読むというのは変な気分である。
ちょっとどきどきする。
師匠の結論は私の『戦争論の構造』と通じるものがある。それは「誤りうることを引き受ける文学の力」を信じるという決断である。
「正しいこと」より大事なことがある。
それは私にも直観的に分かる。
でも、それが何かということはうまく言えない。
以前、上野千鶴子の書いたものについてどう思うか問われて
「正しいけれど、徳がない」
と言ったことを思い出した。
「徳」て何だろう。
レヴィナス先生には「徳」がある。
カミュにも「徳」がある。
たぶんそれは「自分を後にして、ひとを先にする」という大きな心の持ち方のことなのだろうけれど、そのような「大きな心」を持つためには、超人的な知性が必要だ。
「知性だけじゃだめなんだよ」ということを言い切れる哲学者の自己の知性に対する圧倒的な自負を指摘する人はあまりいない。
それは「お金じゃ買えないものもあるんですよ」という言葉をビンボー人が口にしてもあんまり説得力がないのと似ている。
う、自分で書いていて胸が痛んできた。このたとえは止めよう。
レヴィナス先生のお家の書斎にはあんまり本がなかった。
先生は「ぼくテレビがすきなの」とおっしゃって、大きな受像器がどーんと部屋のまん中においてあった。
20世紀を代表する哲学者になって、もう読むべき本がなくなってしまった知性から世界はどんなふうに見えるのだろう。
レヴィナス先生はフランスのテレビでフランスのヴァラエティー番組をみながら
「もう、バカなんだから。しかたないねえ」
と微笑まれていたのであろうか。
分からん。
「もう読むべき本がなくなってしまった知性」から見える世界の光景を想像するためにはボルヘス的想像力が必要だ。
うーむ。
想像できん。