3月14日

2000-03-14 mardi

科別教授会で2001年からの新カリキュラムが決まった。
11月に「全学再編構想」を提言してから、ずいぶん長い時間がかかり、構想自体もずいぶん縮んでしまったけれど、とにかく具体的な改革案にゴーサインが出た。スタートラインはずいぶんずるずると後ろに下げられたけれど、とにかく「あっちへ行こう」と最初に指さした方向に歩み出したことは間違いない。
よかった。
総文には「現代国際文化コース」が新設される。

  • 「国際関係論、国際社会研究」を軸としたハード・サイエンスの領域
  • 「地域史・地域文化研究」を軸とした実証的学問の領域
  • 比較文化・現代思想研究を軸としたパフォーマティヴ・サイエンス(て何かしら?)の領域
  • 国際社会でのコミュニケーション能力の開発をめざす「トランスカルチャー・コミュニケーション」の領域

世界各地域の歴史と文化についての深い知識と豊かな比較文化的知見を持ち、国際社会の構造と力学をクールに理解し、英語でばりばりコミュニケーションして、国際社会のさまざまなレヴェルで活躍する、そういうタフな学生を育てたい、というのが私たちの狙いである。
「タフな知性」というのは何年か前、難波江先生と呑んでいるときに、ふたりで「そうそう」と意気投合した概念である。わかりにくいので、ちょっと説明するね。

「知性」というと、「鋭利」とか「透徹した」とかいう形容詞がよくなじむ。しかし、じっさいにひとと仕事をしてみると分かるが、「切れ味のよい知性」にできる仕事はあまり多くない。
「切れ味のよい知性」は既存のものを批判したり、バカにしたり、鼻で嗤ったりするときには、すごく役に立つが、どっしり構えた鈍重な制度をじりじりと動かしたり、散乱している材料を取り集めて、とりあえず一時しのぎになるものをこしらえたりというような「ブリコラージュ・ワーク」にはぜんぜん向かない。
「け、くだらねえ。そんなことして何もなりゃしないよ。もっとラディカルでフォンダメンタルでリヴォリューショナリーじゃなきゃ意味ねんだよ」
というようなことを「切れ味の良い知性」のひとはよく口にする。
政治運動においてはこのような精神的傾向のことを「最大限綱領主義」と呼んだりする。
中途半端な改革なんてしないほうがまし、というようなことを言って、すごくかっこいいし、言うことはどきっとするほど過激である。ただ、過激すぎて、ぜんぜん実行される気遣いのない計画ばかり提案しているせいで、いつのまにか「箸一つ持ち上げられない」ほどに筋力が退化してしまう。
こういう知性はどちらかといえば「観賞用」の知性であって、「工作用」には使えない。
私たちが育てたいのは、「使える知性」「タフな知性」「骨格と筋肉がしっかりした知性」「工作する知性」である。
現実はどこでもつねに鈍重である。岩のように、砂のように、泥のように鈍重である。それを動かし、それで何かを作るためには「シャベル」のような、「斧」のような、「のこぎり」のような知的道具と、長時間続く単調な作業に耐えられる頑健な知的筋骨が必要である。
それは例えば論文を書くような作業においても同じである。
あるロジックでごりごり押して行く。するとそのロジックが「通らない」局面に出くわす。そのとき「あ、だめだ」とへたりこむ人と、「なんのなんの」と押し続ける人がいる。彼らを隔てるのは「タフネス」の差である。
そしてわしわしと押して行くと、はじめは鋼鉄のように頑強に見えた論理の難所がやがて「がらがら」と崩れ、目の前にぱっと展望が開けることがある。(ぜんぜん開かないこともある。どちらかといえば、そちらの場合の方が多いが)
これは知的にタフな人にしかできない。
そして私たちが世の中でしなければいけない仕事のほとんどは「わしわし」仕事なのである。