3月7日

2000-03-07 mardi

自分で書いたものをしみじみと読み返して、どこかで聴いたことのあるような説教だなあと思っていたら、やっぱり私が昨日ここに書いたのはまるごとレヴィナス先生の御説であった。
使用している語彙がぜんぜん違うので、一見するとまったく哲学的でも倫理的でもないことを説いているように思えるかも知れないけれど、(書いている本人も気がつかなかったが)これはまぎれもなくレヴィナス哲学の基本的な考想のひとつを祖述した言葉である。
ついに私は「自分の言葉で師匠の思想を言い換える」ところまで、師匠の哲学を内在化したということになる。
「レヴィナス学校」の中卒くらいの段階には達したということであろうか。
レヴィナス先生は「知解」を哲学の本義とする西洋形而上学の徹底的な批判者として登場し、「倫理」という古びた言葉に斬新な意味を与えたので、先生が「徹底的に知的な人」であるということを多くのひとは忘れている。
先生は徹底的に知的な考究の果てに、人間は「物語なしには生きられない」という悲痛で平凡な真理に到達した。そして、先生は「ユダヤ教」という「物語」を確信犯的に選ばれたのである。
それはハイデガーが彼の「カトリック信仰」を「存在」という価値中立的な哲学概念に言い換えたのとちょうど逆の行程を歩んだことを意味している。
レヴィナス先生は「実存」といういかにも illusion-free な哲学用語を「選ばれた民」というあらわにフィクティシャスな用語に言い換えた。

「私は『お話』をこれからします。この『お話』にはいろいろと深い教えがこめられています。みんな聴きながら自分で汲み取ってね。じゃ、話すよ」

というのがレヴィナス先生の哲学の基本的なスタイルである。(なんだか幼稚園みたいだけど)
「私はこれから『真実』を語る」というふうにはレヴィナス先生は決して始めない。私はこれをすごくフェアな態度だと思う。
徹底的に知的な人は、知性の徹底性についての根底的な疑惑にとりつかれる。それはプラトンからデカルト、フッサールまで、みんな同じである。
哲学者たちはそこで「必当然的明証性」(決して疑い得ないこと)というものを何とかして探し出して、とにかく知の身元保証をしようとしてきた。(デカルトの「コギト」やフッサールの「超越論的自我」とかいうのはそういう工作物である。)
レヴィナス先生はそういう道をとらなかった。
先生は知の徹底性についての根底的な疑惑から先人たちがどのように逃れたを考察した。そして、次のような洞見を得た。

「知の徹底性への疑惑から逃れる仕方はいつも同じである。それは必当然的明証性という『物語』をつくりだすことである。あらゆる知はその反省の究極において『物語』を見出すのだが、見出したとたんにそれが自分で創り出した『物語』でしかないことを構造的に忘却する。」

だから西洋形而上学のこの限界を乗り越えるためには、ただひとつの身ぶりがあれば足りる。
それは自分が「知の極限」において出会うものは、自分が創り出した幻影であるという経験的事実「から」出発することである。
そして、「知の極限」に「その先」はない。
だから「出発する」ということは「戻ってくる」ということにほかならない。
徹底的に知的な人は徹底的に具体的な生活者となる。そこしか人間の生きる圏域はないということを知っているからである。
哲学者は「物語」の渦巻く俗世間に別の「物語」をたずさえて戻ってくる。
けれど、それは「どこかに真理という終点があるはずだ」という儚い希望を完全に切り捨てた、深い、底なしの、終わりのない「物語」である。
なぜ哲学者たちはそれでもなお「話し始める」のだろう。
筒井康隆であれば「サービス精神」というだろう。カミュなら「ノブレス・オブリージュ」というだろう。レヴィナス先生は「愛」というだろう。言葉は違うけれど、言いたいことは同じだと思う。
要するに「♪分かっちゃいるけど、やめられない」のである。
分かっていてもやめられないのは、彼らにおける「愛の過剰」のゆえである。いや「過剰であること」こそが「愛」の本質なのだから、これは同語反復だ。
お、すっかり長くなってしまった。
どうもレヴィナス先生遺徳顕彰事業にかかわるといきなり力が入ってしまう。今日の講義はこれでおしまい。「愛」についての講義の続きはまたこんど。