平川君、「笑いネタ」をありがとう。
ご指摘のとおり、大学の人間は、あまり「世間」を知らない。
それが悪いといっているわけではない。べつに「世間」のことなんか知らなくても、健全な常識をもっていれば何も問題はない。「世間の常識」なるものだって、マジョリティに共有されている単なる幻想にすぎないのだから。
しかし、マジョリティに共有されている幻想には、それなりの歴史的必然はある。
先端的なビジネス―つまりみんなの好きな「クリエイティヴな仕事」―においては、いまや主流は「年俸制」の雇用契約であり、もちろん残業なんかない誰もカウントしてくれない。すべてはどんな結果を出しただけで判断される。
「結果はでなかったけれど、私としては一生懸命やったんです」というような主観的な判断は考課の対象外である。
それくらいのことは世間知らずの大学教師の私だって知っている。
大学がそのようなシステムをとることができないのは、「成果」(教育の成果つまり「どれほど優秀な学生を育てたか」と、研究の成果つまり「どれほど優れた研究をしたか」)が「年度末に売り上げとして数値化」できないからである。
真に優秀な教え子はたいてい「大器晩成」であるし、真に卓越した研究成果はほとんどの場合、リアルタイムでは誰にも評価されない。そもそも教員たちのすべてのしごとの成果を網羅的かつ客観的に判断できるレフェリングの機関が存在しない。(それだけのスタッフを抱え込んだら、そいつらに払う給料だけで大学は破産してしまう。)
しかたがないので、勤続年数だけを基準に「年功序列」で給与を支給しているのである。
「結果」ではなく、「過程」をだいじに評価してあげるのは「教育」の現場のはなしである。
子どもを育てるときには、一般的な達成基準をあらかじめ設定して、それに達しないと叱責するという「マイナス・カウント」査定は子どもの可能性の開花をしばしば妨げる。
だから、「ぼくはできるだけのことはしたんだよ」とべそをかきながらいいわけする子どものあたまを私はよしよしとなでてあげる。「もっと力をつけて、次はがんばろうね。」
「私として一生懸命やったんです」というエクスキューズが仕事のミスのいいわけとして有効であるのは、「教育されている過程にある」人間の場合だけである。それが仕事の上でも通用すとと思っている人は年齢はいくつであれ、要するに自分を「子ども」だと思っているのである。
もちろんいつかは、責任をとれるくらいに職能が高まり、「もう子どもではなくなる」日が来るのであろう。できれば彼女たちが定年退職される前にその日が来ることを私は切に願う。
BBSでは田口さんと2号がむずかしい議論をしている。
私にもよく主旨が分からない。まあ、ふたりとも私の弟子であるから、師匠に似て「言葉は多いが、言いたいことがよく分からない」という悪癖を継承してしまったのであろう。
ここでキーワードになっているのは「邪悪さ」ということである。『アミスタッド』の映画評のところでもしつこく書いたが、これは私の「物語」のキーワードである。
そのことをちょっと書いておきたい。
まず『映画は死んだ』の次の一節を読んでほしい。
ラカンの知見に従うならば、人間の無力さは、極限的には「おのれが無力である」という事実それ自体を受け容れることが出来ないというかたちをとる。そのとき、人間はおのれの無力を、自分の「外界」にあって「自分より強大なもの」の干渉の結果として説明しようとする。
「私の外部」にある「私より強大なるもの」が私の十全な自己認識や自己実現を妨害しているという「物語」を作り出すのである。「私」が弱いのではなく、「強大なる者」が強すぎるのだ。
そのようにして私の外部に神話的に作り出された「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」のことを精神分析は「父」と呼ぶ。
「父」はそのようにして「私」の弱さをも含めて「私」をまるごと説明し、根拠づけてくれる神話的な機能である。
それを私たちは場合に応じて「神」と呼んだり、「絶対精神」と呼んだり、「超在」と呼んだり、「歴史を貫く鉄の法則」と呼んだりするのである。もちろん、それを「母なる超自我」と呼ぶことだってできる。
私たちの「弱さ」は「より強いもの」が先行する物語を要請する。そうやって事後的にもたらされた「起源についての物語」が、私たちの「弱さ」を説明し、それに根拠を与え、それを正当化し、それを免罪してくれるのだ。
テクストを読むときには「底」を探してはならないとバルトは私たちを諌めた。それは、私たちが物語を語るとき、ほとんどつねに「私が立ち会うことができないほどの過去」に、「私が言及し切れないほどの巨大な輪郭をもつ存在」を作りだし、それによって「私のいま」を説明しようとすることを彼が知っていたからである。
偽りの起源を語ること、つまり「経歴詐称」こそが物語の本性なのである。だから、不用意に物語に踏み込めば、必ず私たちたちは「起源探し」のプロセスに絡めとられてしまう。
「増殖する物語」と題したこの短いテクストで私が言いたかったのは、物語を語るものはほとんど宿命的に自分の起源について嘘をつくということである。しかし、それは「真実の物語」がどこか別の所にあるという意味ではない。
嘘をつくこと、経歴を詐称すること、物語をそれと知らずに語ること、それは「何かを伝える」ための行為ではなく、何かを「知る」ための行為だからである。
これが私の主張のかんどころである。
私たちは何かを知ろうとしたら、それについての「物語」を語ることから始める他にやり方を知らない。
「自分」について知ろうと望むものは、「自分」についての「物語」を語ることになしには一歩も身動きできない。「私の真実」を知るためには「私についての物語」を紡ぎ出す作業から始めなければならない。「真実」は「物語」を経由してしか主題化されえない。
ある日、私は「邪悪さ」というキーワードで自分についての「物語」を編制してみようと思いついた。
そうすることで「私は善良である」という「物語」によって編制された自己史の文脈にはうまくおさまらない事実や「説明」できない経験を説明し、合理化することができるかもしれないと思ったからである。
ことは純粋に「知的」な探求にかかわっている。
私は自分が邪悪な人間であると「思っている」のではない。
そういう仮定で構築した「物語」のカヴァリッジはどれくらい広く、どれくらい深いか。私について説明できないままに残っていた「とげ」のような経験のどれを説明できて、どれが説明できないままに残るのか、ということを「知ろうとして」私は「嘘」をついているのである。
「真実」というのは、とりあえず手持ちの「物語」のうちでもっともカヴァリッジが広くて、原理が単純なもののことである。
お弟子さまたちが見落としているのは、私が「徹底的に知的な人間」であるという事実である。(ここでいう「知的」というのは、intelligent という意味ではなく、knowledge-oriented という意味である。)
「徹底的に知的な人間」というのは、自分が「ぜんぜん知的でない人間である」可能性について、またなぜその洞見が自分には構造的に欠如したのかの原因についてさえ、説明を求めてみもだえするようなタイプの人間のことである。
こういうタイプの人間はレアである。
私はそのレアな一人なのであるが、それは「内田の言ってること変だよ」とひんぱんに言われるので、自分がバカではないかという可能性について吟味する機会が人一倍多いからなのだ。
(2000-03-05 00:00)