2月15日

2000-02-15 mardi

2月15日。昨日はバレンタインデー。母の誕生日でもある。古希をだいぶ過ぎたが母は元気であろうか。(ひとこと電話くらいすればよいのだろうが、そういうことはしない。なにせ根が悪人だから)
バレンタインデーなので、いろいろと菓子類をもらう。今年の変わり種は「鶴屋吉信」の「ハート羊羹」と広島限定販売「もみじペロティ・チョコ」とアンプレッションの「チョコムース」。
この時期はいろいろな甘いものが食べられる。しかし、高価な生チョコや林さん手作りのチョコクッキー(美味しいの、これ)などはみるみるうちにるんの胃袋に収まっていった。
「ホワイトデーにお返しするんですか?」と隣のみよちゃんのお母さん(などと言っても誰も知らないでしょうけど)に訊かれたけれど、めんどくさいのお返しなしです。あしからず。ごめんね。

バレンタインデーとかホワイトデーとかいう儀礼を「菓子屋の陰謀」というふうにさかしらに批判する人がいるけれど、私はそうは思わない。
贈与論というのは文化人類学上の一大テーマである。ひとにものを贈るというのは、かなり根源的な人類学的営為である。
バタイユは『呪われた部分』で北米インディアンの「ポトラッチ」という贈与習慣を分析して、贈与の本質は「愛他的動機から有用なものを与える」ことではなく、「贈られる側を心理的に威圧すること」であるという興味深い結論を導いている。
ポトラッチの場合は、最初は毛布とか什器とかいう生活にとって有用なものを贈るのだが、受け取ったものはただちにそれよりも多くのものを返礼することが義務づけられている。
もらったら、もらった以上をお返しするのである。お返しをしないと相手の財力や雅量に屈服したことになるからである。だから、もらったらすぐにそれ以上の贈り物を贈り返す。返礼を受け取ったものは、さらに返礼し返す。
それが繰り返されているうちに、贈るものがなくなってしまう。仕方がないので、贈り主は、相手の目の前で自分の漁船を壊したり、自分の住居を焼いたり、奴隷の喉を掻き切ったりするようになる。
こんなことをされても、贈られる方はぜんぜんうれしくないが、それが贈り物である以上、自分も自分の財産をどんどん壊さないといけない。
こうして「毟り合い」の果てに、双方ともぼろぼろになり、無一物となり、最初に「参った」といった方の「負け」で勝負は決するのである。
この事例から分かるように、贈与というのは、有用物を交換する経済行為というような合理的な目的のものではない。(ジャン・ボードリヤールが「象徴価値」と名づけた)「社会的な差別化をもたらす力」を生み出すのが贈与の本質なのである。
つまり贈与とははもらった方が「負け」という「勝負」なのである。

むかしから「贈り物には消えものを」という生活の知恵がある。
ひとからもらった贈り物がいつまでも実在しているということは、心理的負債感をいつまでも感じ続けるということであって、もらった方はあまり嬉しくない。だから、ひとにものを贈るときは「花」のようにすぐに無価値になるもの、「飲食物」のようにやがて消費されるもの、「陶磁器やガラス器」のようにいずれ砕けて消えるものを贈るのが正しい心配りとされるのである。
経験的に言って、信楽焼の狸の置物とか、東京タワーの文鎮などのような「いつまでも存在し続けるもの」を贈ってよこすやつにろくな奴はいないが、それは贈与による心理的威圧感を相手に対してできるだけ長く行使したいという彼らの欲望が剥き出しになっているからである。

今回のバレンタイン勝負は、チョコをもらったままお返しをしない私の「負け」である。
私に贈り物をした諸君は「勝った」のであるが、諸君の勝利の徴であり、私に心理的負債感をもたらすはずの菓子類はことごとくるんの皮下脂肪に転化してしまうので、勝利の効果はあまり持続しないのだ。(それとも、るんのまるまるとした身体をみるたびに私は負債感をひしひし感じることになるのだろうか・・・)