2月14日

2000-02-14 lundi

土日は「大学院自己評価委員会」のレポートで潰れてしまった。
官僚的文体でこりこりと書いていたら、だんだん精神が官僚的になってきた。
私はもともと体質的には権力的で官僚的で警察的な人間である。
高校時代、予備校時代を通じて、つねに「志望学部」は法学部だった。そのころの予定では東大法学部を出て司法試験を受けて検事になるか、公務員試験を受けて警察官僚になるか、どちらかを漠然と考えていた。(中学時代から六法全書を読んでいると飽きないというわけのわからないこどもであった。)それがなぜ仏文学者もどきなどになってしまったのであろうか。
本人にもよく分からない。
出願書類に書くときになって、なぜか手が「文科 III 類」のところにまるをつけてしまった。どうして土壇場になって文学部に志望変更したのか。理由は不明。
あとになって、自分の官僚的な体質に対して、自己嫌悪のようなものを感じていたのかもしれないと思うようになった。文学研究でもしているぶんにはあまりひとさまに迷惑を及ぼすこともあるまいと思ったのかもしれない。
「私は権力をもつと非常に有害な人間になるであろう」
ということを、私はけっこう早い時期に気が付いた。
そういうわけで私は「非権力的」な道をそれからたどることになるわけだが、これは「反権力的」というのとは似て非なるものである。
「反権力的なひと」というのは、(ドクター北之園みたいに)根っから権力機構が嫌いな人である。だからどういう巡り合わせでも、必ず権力機構と衝突するようなポジションに位置することになる。
「非権力的なひと」というのは、実は根は権力好きなのである。びしっと指揮系統の整った組織で、ばりばりと実務をこなし、人々を数値のように扱うことをこよなく愛してしまうような気質なのである。うっかりしていると、ずるずると権力中枢に寄り添ってしまうような危ない傾向を持っており、そういう自分が嫌い、という「一回ひねり」のひとなのである。
したがって、自分のやるべきことを考えるときに、「いかによいことをするか」というふうに前向きには考えることができず、「いかに、あまり有害にならないようにするか」というふうに考えてしまうのである。
こういう人の場合は、自己制御や自己韜晦で力尽きてしまって、あまりちゃんと自己実現できない。
しかし、根が悪い人で、そういう自分をなんとかしようと努力している人、というのは思いの外多い。(本学の同僚にも少なからずいる。実名をあげるとさしさわりがあるが、「ちょっとかどがあるけれど、話してみるとけっこういい人」というふうな風評のひとはだいたいこのタイプである。ほら、あの人とか、あの人とか。)
そういう人たちが「非権力的なひとたち」という層を構成しており、これは日本社会の各部に棲息しているのだが、なにしろ根が悪い人たちなので、集まって徒党を組むとか、綱領を発表するとか、そういうことはしないのである。