三連休で、おまけに娘は修学旅行。
夢の三日間。さあ、ばりばり仕事するぞ。
とはいえ、初日はいちおうお祝い気分で神戸観世会に行く。番組は能が『班女』と『須磨源氏』。どちらも初見である。
三島由紀夫の『近代能楽集』の「班女」はなんだかよく分からない話であったが、オリジナルはわりと単純なラブ・ストーリーである。美濃国野上の宿の遊女が、東に下る吉田少将と一夜の契りを交わしてのち、他の客をとらなくなったので、楼主に追い出されて、ひとびとに「班女」とあだ名される狂女となって・・・という話である。
「班女」というのは漢の成帝の官女の名。君寵の衰えたのを秋の扇に譬えて歌った『怨歌行』の作者だそうである。(いま百科事典で調べた。私のことを口からでまかせばかり言っている人間と思っている人がおるようだが、実は小学生のころから分からないことはすぐに辞典を引いて調べるこどもだったのである。)
その『班女』を、ワキ方(吉田少将)がもう少し若くてハンサムだと気分が出るのになあ、と思いつつ見る。
『須磨源氏』の方は始まる前にロビーで小鼓方の久田舜一郎先生に会ったので「あまり演じられないので私はじめて見る能なんですけど、どんなんですか」とたずねたら、「あまり演じられないだけあって、つまらない能です」というにべもないお答えであった。
不吉な予言はよく当たる。
しかし、私が今日見に行ったのは能ではなくて、お師匠さま下川宜長先生の仕舞である。
観世の家元が『東北(とうぼく)』を舞ったあとに下川先生の『国栖(くず)』。家元のすぐあとという出番なので、ぐっと気合いの入った、我が師匠ながら、ほれぼれする舞い姿だった。
しかし能楽の観客層のとどまるところを知らない高齢化はどうしたものであろう。
観客の男女比はおよそ女性8に対して男性2。平均年齢は男性がおそらく60代を超えている。女性は若いひともまじっているので、それよりはだいぶ下がるだろうが、最多年齢層で言えば、これもたぶん60代。
観客も演者も「おば(あ)さん」たちで支えられているのが、日本の能楽の実状である。
杉良太郎とか五木ひろしとかも同じ様な年齢の客層に支えられていて、ちゃんと仕事をしているわけであるから別に心配するには及ばないのかもしれないけれど。
しかし、どこかで若い男性が組織的に参入してくるような機会を設けないと、能楽の未来はかなり限定的なものになってしまうような気がする。
下川先生によると、男性の参入を妨げている最大の要因は「月謝の高さ」なのだそうである。(月額自体はそれほどでもないが、チケットノルマや、年に何度かある社中の会のお役料や諸経費は、たしかにかなり高い。私も最初に紋付き袴一式を新調してお仕舞で能舞台を踏んだときにはボーナスの半分がとこ消えた。)
中高年のサラリーマンの中には「謡をやりたい」というひとはかなりいるのだが、みんなお小遣いが少ないので続けられない。(がんばって続けているサラリーマンも定年を迎えると奥さんに「禁止」されて泣く泣くやめて行くそうである。うう、哀しい日本人。)
私はさいわい「奥さん」などというやっかいな存在とはご縁がないので、お小遣いをばしばし使ってお稽古に励んでいる。
あと10年ごりごり稽古して、60歳になったら還暦祝で能を演じようという遠大な計画である。
演目の希望を言っていいなら、『土蜘蛛』で蜘蛛の糸をまきちらす蜘蛛の魔物のをやりたい。『小鍛冶』の小狐でもいい。とにかくあやしげな動物霊が取りついた「怪物」になって太鼓のビートに合わせて能舞台中を走り回るようなのをやりたい。『隅田川』とか『松風』とか「女の情念がどろどろ」ものは困る。(みんなだって私が小面をしてしゃらしゃら出てくるのなんか見たくないと思う。)
(2000-02-11 00:00)