発熱とホームページに書いたらいろいろなひとから見舞いのメールが届いた。
どうもありがとうございます。だいぶよくなりました。げほっ。
お見舞いメールのなかでいちばん感動したのは兄ちゃんからのメールでした。感動のあまりご紹介します。
「どんな案配ですか? あまりストレスためないようにね。ぼくは他人に対して怒りを感じて、それを押さえるような場面がほとんどありません。ぼくは会社で怒鳴ったりしたことはただの一度もありませんが、やっぱり社長さんなのでみんな気を使ってストレスためているんでしょうね。社長っていうのはいいもんだ、と今感じています。お大事に。」
自分の立っているポジションについて過小評価も過大評価もしていないという点に私は兄ちゃんの知性を感じたのです。それができないひとがぎょーーーーさんおんねん、兄ちゃん。
さて、入学試験である。
げほげほしながら試験監督をし、採点をし、会議をし、そのあいだにもいろいろな先生と話をする。
全員にまんべんなく咳をまちきらしたので、あと二三日すると、大学の教職員の方々の過半は39度の熱にうなされることになるであろう。申し訳ない。
松澤学長から「いろいろ大変みたいですけど、がんばってください」と激励のお言葉を賜った。
「いや、もうだめですよ。先生のせっかくの構想を実現できずにすみません」と気弱くうなだれてしまう。
しかし、学長が私たちの改革の動きに期待をかけていてくれる限りは、なんとしてもその志には報いなければならない。人生意気ニ感ズ・・・燕雀安ゾ鴻鵠之志ヲ・・・といささか魏徴詩的な気分になる。まあ「燕雀」ご本人は何言われてるのか意味わかんないだろうけど。
しかし漢文化だって私たちにとっては半ば肉化したとはいえ、もとは大切な異文化リソースである。そういうものを軽んじておいてグローバル・コミュニケーションとか言われても困るぞ。
異文化コミュニケーションというととりあえず英語で口頭のコミュニケーションがこなせればよい、というふうに考える人が大学の教員にも少なくない。しかし、私はそういうふうには思わない。
漱石の最初の訳業は『方丈記』の英訳だった。
中江兆民はルソーの『民約論』を訳したとき、適切な訳語を求めるためにまず漢訳を作った。(だから清末の革命家たちは兆民の漢訳『民約論』で理論武装することができたのである。)
複数の文化圏を空間も時間もかかわりなく自在に闊歩し、それぞれの文化の精華を享受し批評しそれを素材に新たな作品を創り出すことのできるできる能力。こういう能力を私は「異文化コミュニケーション」能力と呼びたい。
それはTOEFLが何点とか、そういうのとはまるでレヴェルの違う話だ。
アジアの多くの国がTOEFLの平均点で日本を上回っていることが最近新聞に出ていた。
「え、あんな国より下?」
というような国がいくつもあった。
受験生の数が何桁も違うのだから、比較するのはあまり意味がないけれど、新聞が「日本における英語教育の欠陥」だけをあげつらって、触れようとしないのは、それらのアジアの国々の多くが第二次大戦後に自国の古来の文字を棄ててアルファベット表記に変えたという事実である。日本でも敗戦直後に同様の議論があったからどこかで聞いたことがあるだろうが、本気で「ローマ字」を公用の表記にしようとした人々や、公用語をフランス語にしようと運動した人びとがいたのである。よそのことを嗤えない。
公用語は日本語のままであっても、ひとたび表記をローマ字に変えたら、もうラテン文字系の言語に習熟する以外、ある程度以上の抽象度の知的コミュニケーションを他者と成立させる手段はない。高等教育はヨーロッパの言語で行う他ないだろうし、ペーパーだってそれで書くほかないだろう。
datte, anata, konna moji hyouki de kakareta bunshou wo naganagato yomemasuka?
私は耐えられません。私なら英語をやるよ。
そのようにして、それらの国々はTOEFLの点数を上げた。
おかげで、目端の利く連中は外国に出稼ぎに出て、そのうちの何人かはビジネスや学界や芸能界で成功した。
おお、なんて素敵にインターナショナルなんだ。英語ができると10億人とコミュニケーションできるんだ。
でもビジネス・チャンスの拡大と、それで潤う人々の快楽の代償に、それらの国々は、全国民から、組織的に、彼らの国の伝統的な文化にテクスト経由で出会うチャンスを奪ったのである。
これらの国では、祖父たちの代以前の文字文化は「考古学の対象」になったからである。
アジア諸国の英語教育の成功をほめたたえるのは結構。けれどもそれらの若者たちは、その代償に、それまでの「父祖の文字」で書かれたテクストへのアクセス機会を構造的に奪われたことを忘れてよいものだろうか。
それが彼らにとってそんなに素晴らしいことだったのだろうか。
私にはそうは思えない。
けれども、彼らはもうそんなものを読む気もないだろうし、一世代あとには全部忘れてしまうだろう。
けれど、「異文化コミュニケーション」とはそういうような、世界中の景色がぜんぶ同じになるような平板化のこととは違うはずだと私は思う。
エドガー・アラン・ポーとシャルル・ボードレールの出会い、尾崎翠とココ・シャネルの出会い、スラヴォイ・ジジェクとアルフレッド・ヒッチコックの出会い、村上春樹とティム・オブライエンの出会い・・・それぞれの集団的=歴史的課題を重く背負ったひとびとの出会いのようなものを異文化コミュニケーションと呼ぶのではないのだろうか。
ひとはその身に背負った「かけがえのないもの」を代償としてはじめて他者と出会うことになるのである。
そんなことは当たり前である。
「あなた自身の身に誇るべき何を負っているのか」いまの大学生にそう問うことはそれほど空しいことだろうか。
私はそうは思わない。
けれど、たしかに、いまの大学生には漱石や兆民や鴎外や荷風にあったものが決定的に欠けている。
知性ではない。(それもちょっと足りないけれど、もっと足りないものがある)
それは「矜持」である。
「矜持」ってなんて読むの?とつぶやいた君。
もう一度言うね。
そういうことを言ってきょとんとしている君に欠けているものは、「知性」ではなく「矜持」なのである。(「きょうじ」と読むのだよ)
自分が無知であることを恥じる心がある限り、知性は活動状態にある。
自分の無知を恥じる心を失ったときに、知性は死ぬ。
「矜持」とは「含羞」の「よそいき」の顔のことである。
「含羞」ってなんて読むの?って。
とほほ。
(2000-02-03 00:00)