1月25日

2000-01-25 mardi

山本浩二画伯の個展を見に、淀屋橋の「番画廊」に行く。
画伯の大作は番画廊ではやや空間的にものたりない。(南港のライカのような巨大空間だと非常にはえるのだが)
オープニングパーティを失礼してしまったので、ひとりででかけたが、画伯の知人友人が来ていて、ワインを呑みつつおおいに盛り上がり、そのまま画伯のご案内で天神筋5丁目の「天平」に繰り出す。
鱈の白子、牡蠣、山菜などの天麩羅、鯛のあらの塩焼き、骨せんべい、鮪のお造り、粕汁、昆布蕎麦などを「美味美味」と称えつついただき。ビール、焼酎などをごくごく飲んで、ひとり 2,600 円。画伯のご案内でご飯を食べるとお得である。
隣に座った四天王寺高校の数学の先生に、画伯と私はどういう知り合いか訊ねられる。
『映画は死んだ』の「あとがき」にちょっと書いてあるけれど、画伯とは中学二年生からのともだちである。
当時、大阪にSFFC(SFファンズ・クラブ)という、「ご禁制のSFをこっそり読む全国の中学生の地下組織」があった。そこで、画伯は大阪の中学生を束ねてファンジン『MM』を、私と松下正己は東京で「ファンジン」『トレイターズ』を出して、はりあっていたのである。
『MM』は筒井康隆の単独インタビューなどという、中学生の同人SF誌にしては信じられないほど内容の高い記事を掲載しており、「ガリ版」で刷られたそのファンジンのヴィジュアル・センスは卓抜なものであった。(これが画伯のキャリアの出発点となったのである)
画伯とは中学生のときに大阪で一度、東京で一度、二度あったきりである。
そのあと、私も彼も相次いで高校を中退し、画伯はやがてスペインにわたってしまい、音信が途絶えてしまった。
神戸女学院に職を得て神戸に移るにあたって、私には現地の友人が一人もいなかった。
「山本浩二がいるじゃない」と松下君に教えられて、その名前を思い出した。画伯の個展に欠かさず通っていた松下君が電話番号を知っていたので、電話をしたのが、90年の春のことである。
25年ぶりの電話である。
「あのー。山本さんですか? 私、内田と申しますが・・・」と言ったら、画伯はまるでさっき角で別れたばかりのともだちからの電話のように
「あ、たっちん? なに?」と答えたのである。
それから10年、私は四季折々画伯に案内されて「ディープ大阪」の美味いものを食べ続け、幸福な日々を送っている。