1月23日

2000-01-23 dimanche

武道シンポジウムは盛会のうちに終了いたしました。
ご多用中のなか、パネリストとしてご参加下さった鬼木、平川の両先生、試験期間中の休日という悪条件にもかかわらず来てくれた学生諸君、合気道会の教職員OGの皆さん、遠路ご出席いただきました学外からの参加者のみなさん、主催者を代表して、こころからお礼申し上げます。
3時間の予定を30分も超えましたが、それでも語りきれないほどに内容豊かなシンポジウムでした。懇親会にも多くの方が加わって下さり、たいへん愉快な会になりました。
当日の私の発表原稿と、平川君が用意してくれた原稿に加筆して頂いたものを近日中にホームページに掲載する予定です。残念ながら参加できなかった方たちは、それをご覧下さい。
また平川君の突きを受けて私がふっとばされるところや鬼木先生の形のご披露などのヴィジュアルは、腕の痛みをこらえて3時間余にわたってヴィデオを回してくれた小川さんのおかげで貴重な記録として残すことが出来ました。(ご苦労様)VHSにダビングしておきますから、みなさん借り出して見て下さい。
ああ、面白かった。
武道の話は、ほんとに楽しいですね。
東京から多忙なビジネスの合間を縫って来てくれた平川君は、懇親会の帰り道、「あんなに素直で元気な学生や愉快な同僚(これは飯田先生のこと)に囲まれて仕事しているなんて、夢のようだね。いいなあ、いいなあ・・・」とさかんに羨ましがっておりました。(ふふふ、いいでしょ)
そのあとうちで平川君と久闊を叙しつつ深更まで語り明かしました。

で、話は急に飛ぶのであるが、

そのときの話題のひとつは、私と平川君の「鏡像自我構造」について。
私と平川君は小学校五年生のときからの友人なのだが、11歳のときに「自分と同質の気質をもったともだち」と出会ってしまうと、それからあとの人生はどうなるのであろう。
発達心理学が教えるように、鏡像段階から十分に離脱していない幼児は、自分と外見が似ているほかの存在と自分自身とをうまく区別できない。だから、ともだちをぶっておいて「ぶたれた」と泣き出したり、ともだちが転んだのを見て「痛い」と言ったりする。これを転嫁現象という。
そのような自他癒合状態の幼児がしだいに「私の経験は他者には共有されない、私の『内部』はそとからは想像的には体験できない」ということを学習して、代替不能のものとしての自我を形成してゆくのである。
つまり、自我の形成とは「私は周囲の人間とは異質である」ということを繰り返し経験するうちに、「私だけにあって、余人と共有しえぬもの」を研ぎ出すというしかたでアイデンティティを構築してゆく過程のはずである。
ところが、私たちの場合は、そのやわな自我が出来上がろうとしているまさにその時点で「私と彼との両方にあって、共有できてしまうもの」に幼い自我が圧倒されるという困った経験をしてしまった。まるで成長過程を逆行するようなしかたで、私たちは「私の経験を共有してしまう他者、私の『内部』を想像的に体験してしまう他者」というものに出会ったのである。
これは「ご縁」というほかない特異な経験なのだが、そのせいで、私たちは純粋でリアルで代替不能の「私」という幻想の形成に重大な支障をきたしてしまった。
つまり、「私は他者であり、他者は私である」という自他の混乱がきわめて「愉快な」経験として私たちのうちに刷り込まれてしまったのである。
11歳のときに、私たちはそれぞれの自我の一部分を、どちらにも属し、どちらにも属さない「共有財産」として、それぞれの自己史の「金庫」にデポジットした。
しかるに、その「共有財産」はそのまま39年間休眠していたわけではなく、やたらに元気のいい少年であった私たちはそれぞれに依託された共有財産をいそがしく「運用」して、どんどんふやしてしまったのである。
その結果、私たちは「他者」をかかえた「私」として自己形成を遂げた。
この言い方はあまり正確ではない。私たちが抱え込んだ「他者」とは個別の誰かのことではなく、私たちふたりを同時に駆動している非人称的な「装置」のようなものである。
ご案内のとおり、私たちはふたりながらじつにさわがしく多動的な人物であり、まわりのひとと年中もめごとをおこしている。だが、驚くべきことに、その当の二人は39年間いちども、口げんかひとつしたことがないのである。ちょっと「むかっ」としたが、友情に免じてぐっとこらえたという経験さえ私にはない。
私たちは26歳のときに会社を興して、そこでけっこうシビアなビジネスをやっていた。
いっしょに会社を作った仲間たちと私はしばしば意見の不一致をみた。たいていの場合、それは単なるビジネス上の見解の相違にすぎず、どちらが正しいとも判じ切れない種類のものであった。
しかし、そのどのトラブルにおいても私は平川君とはただの一度も意見が対立しなかったのである。
私と平川君が実は意見を異にしていた場合もあったはずである。しかし、いったんどちらかがさきに意見を口にしたとたんに、もうひとりは、それこそ自分が言いたかったことであるように瞬間的に記憶を操作してしまうのである。
「事後的に工作された同じ意見」を私たちはじつに愉快に共有してきたのである。
私たちの会社の専務であったY山君は、「守りの」ビジネスの人であったので、冒険的な起業家である平川君にしばしば異議を唱えた。その彼の最大の苦しみは平川社長と役員である私が「同時に、同じことを失念し、同じ勘違いを共有する」ことにあった。つまり三人があることを経験し、それについて思い出さなければならないとき、私たちふたりは瞬間的に記憶を工作してしまうので、つねにふたり口を揃えて「それY山の記憶違いだよ」と言うのである。これではY山君もたまるまい。
そののち、私が師の体感を想像的に追体験することを修行の核とする合気道や、他者への開放性を説くレヴィナス哲学に親しむようになったのも、平川君と私が最初に興した事業が「他言語が行う世界分節を自国の言語で追体験する」ことを主務とする翻訳会社であったことや、彼がいまアメリカのヴェンチャーと日本の資本の「異質なものの出会い」をプロデュースするインキュベーション・ビジネスで大活躍しているのも、「純粋でモナド的な自我」というものに対する信憑を私たちが構造的に欠落させていることと無関係ではないだろう。
だから私たちふたりとも、たぶんこれまで一度も口にしたことがない言葉がある。
それは「俺の気持ちが他人にわかってたまるか」という言葉である。