「内田さんて、映画評論の本書いてるわりにはろくに映画見てないですね」
という厳しいコメントをよく頂く。
正論なので反論できない。
この場合「ろくに見てない」映画は、「とんがり」系の映画のことが多い。
単館ロードショーとかレイトショーでやる「アートフィルム」方面に、私はまったく疎い。
ふつう「マニア」というひとは、そういう映画を中心に見ている。
だから「マニア」同士の会話には、まるでついていけない。
困ったものである。
それにしても、なぜ私はかくも「アート」に弱く、「バカ映画」ばかり見ているのであろうか。
もちろんそれにはそれなりの理由がある。
私のアバウトな分類によると、映画をみて、それについて語るパターンには4通りある。
(1)「誰でも見るような映画を見て、誰でも言うようなことを言う人」
(2)「誰も見ないような映画を見て、(その映画を見た人なら)誰でも言いそうなことを言う人」
(3)「誰でも見るような映画を見て、誰も言わないようなことを言う人」
(4)「誰も見ないような映画を見て、誰も言わないようなことを言う人」
(1)は批評としてはほとんど無価値である。これが世上「批評的言説」として流布しているものの90%である。
(2)もまた批評としてはほとんど無価値である。マニアの語る映画批評はほとんどこれである。
オリジナリティの欠落を補うために、このタイプの批評はしばしば、「誰も見ないような映画を、誰も見ないような別の映画やフィルムメーカーの固有名詞に関連づけて語る」という、「循環参照」的な言説構造になる。
私は基本的に(パソコンのマニュアルやラカンの研究書のような)読者に循環参照を強いるテクストは嫌いだ。
(4)は、しばしばめちゃめちゃに面白く、私はこの種のテクストを深く愛するものであるが、「批評」というよりはむしろ「詩」や「小説」に分類すべきであろう。
というわけで、私が「正しい批評のあり方」とするのは、(3)である。
「バカ映画」を「学術的に見る」というのが、いまの私の考えでは、サブカルチャーとしての映画からもっとも豊かな知見を引き出しうる方法なのである。
「でも内田さん、バカ映画みてるとき、口を半開きにしてへらへらしてますよ。あれを『学術的』というのはいささか無理があるんじゃないですか」
まあ、いいじゃないか。
(2000-01-19 00:00)