1月13日

2000-01-13 jeudi

卒論提出が明日なので、学生さんたちがぞろぞろと最終チェックにやってくる。
10月にファーストドラフト20枚書かせているので、12月になって「まだテーマが決まらないんですけど・・・」というような恐ろしいことをいってくる学生はさすがにいなくなった。
先月のはじめくらいに、セカンドドラフトを読んで、そこでさらにあれこれと注文をつけたのだが、こちらの予想を超えてどんどん内容がよくなる。
最初アイディアをきいたときはどうなることかとあやぶんだ論文が、あっと驚くナイスな仕上がりである。
なんだかみんな急に頭がよくなったみたいである。
おそらく四年間の大学生活で脳細胞をフル回転させる機会があまりたびたびはなかったのであろう。使う気になればこれだけ使いでのある知的リソースを自分が所有していることを本人たちが気づいてくれたのであれば、卒論というシステムもなかなか教育的だということになる。
今年の卒論のテーマはまったくばらんばらんである。

日本の美術館の運営についての批判的考察、マスメディアによる甲子園野球の神話化、丹波の町おこしの企画、『ムーミン』論、,手塚治虫論、戦国時代の女性の社会的地位について、摂食障害、大人の絵本、自我論、アニマル・セラピー、音楽療法、母性の危機、「死」の商品化、美人論、Jポップ論、宮崎駿論・・・

いったい何の研究をするゼミなのか、これだけではぜんぜん分からない。しかし、それぞれの卒論のクオリティはけっこう高い。
意表を衝かれたのは「町おこし」。町おこしについての研究ではなく、卒論そのものが丹波の町おこし「プロジェクト」の提言なのである。それをそのまま篠山市の市役所に持っていって「どうですか、これ」とうかがってみたときのお役人のリアクションまで書いてある。「参加型」というのであろうか、インターラクティヴである。
同じ傾向は、美術館研究(これも美術館への取材のプロセスと、研究する当の相手の対応そのものが批判的に論究されている)やふたつのセラピー研究(どちらも現場にいってセラピーにかかわっている)やJポップ論(書き手はコアな「おっかけ」さまである)や摂食障害(ご本人の経験にもとづいている)などについても見られる。
自分の経験がそのまま研究の素材になっており、研究の成果が直接、自分の現実にかかわりをもってくる。こういう研究スタイルは、少なくとも人文科学の分野ではこれまでにはあまり見られないものであった。
「自分」がなまなましく露出する研究スタイルというのは、ある意味では高度に反省的であり、ある意味では、それゆえの限界もある。限界はあるけれど、「身銭を切って」とか「身体をはって」とかいうスタイルは、基本的には、私の好むところである。
これが当今のある種の知的な「型」なのか、それともたまたまそういうひとたちが「るいとも」で集まっただけなのか、いまの段階では判断しかねるけれども、なかなか興味深い現象ではあるのでした。