1月14日

2000-01-14 vendredi

ドクター北之園と「ゆば」を食べる。
ドクターは私の知る限りかつてはもっとも「ラディカルな高校生」であり、のちに「ラディカルな大学生」となり、長じて「ラディカルな医師」となった人である。人生一貫して、「とにかく過激」というのが実に好もしい。
ラディカルとはものごとを「その根本から考える」知的資質のことである。
どんなことでも「その根本から考える」と異形な相貌をあらわにする。ドクターとおしゃべりしていると、世の中の森羅万象がどんどん「異形」化してきて、なんだかわくわくする。
話題はアトピー治療における製薬会社や治験の問題から始まって、医学教育の諸問題、環境ホルモン問題、乖離性人格問題と多岐にわたった。私はもっぱら専門的知識をほほうと拝聴するだけなのだが、「多重人格」の話題になったので、ここを先途を持説を開陳させていただいた。
ちょっと長いけど、書くぞ。

「多重人格」はいまアメリカで患者数数十万というとんでもない「流行病」である。これを「幼児期の虐待」によって説明するのがいまの「定説」である。療法は、抑圧された幼児記憶を再生させて、否定された自己を蘇らせ、多重化した人格を統合することをめざす。
これは「自己とは何か」という問題について、危険な予断を含んでいると私は思う。
最終的に人格はひとつに統合されるべきである、という治療の前提を私は疑っているからである。「人格はひとつ」なんて、誰が決めたのだ。
私はパーソナリティの発達過程とは、人格の多重化のプロセスである、というふうに考えている。
幼児にとって世界は未分化、未分節の混沌である。幼児にとって世界との接点はもっぱら粘膜であり、その対象は人間であれ、食物であれ、「快不快」を軸にカテゴライズされている。
もう少し大きくなると、ある人間とべつの人間では、メッセージにたいする受容感度が異なることに気づくようになる。コミュニケーションをうまくすすめるためには、相手がかわるごとに、発声法や、言葉使いや、トーンや、語彙を変えほうがいい、ということを学習する。
たとえば、母親に向かって語りかける言葉と、父親に向かって語りかける言葉は、別の「ソシオレクト」に分化しそれぞれ発達してゆく。
コミュニケーションの語法を変えるということは、いわば「別人格を演じる」ということである。
相手と自分の社会的関係、親疎、権力位階、価値観の親和と反発・・・それは人間が二人向き合うごとに違う。その場合ごとの一回的で特殊な関係を私たちはそのつど構築しなければならない。
場面が変わるごとにその場にふさわしい適切な語法でコミュニケーションをとれるひとのことを、私たちは「大人」と呼んできた。
そのような場面ごとの人格の使い分けをかつては「融通無碍」と称した。それが「成熟」という過程の到達目標のひとつであったはずである。
しかるに、近代のある段階で、このような「別人格の使い分け」は、「面従腹背」とか「裏表のある人間」とかいうネガティヴな評価を受けるようになった。単一でピュアな「統一された人格」を全部の場面で、つねに貫徹することが望ましい生き方である、ということが、いつのまにか支配的なイデオロギーとなったのである。
「本当の自分を探す」、「自己実現」というような修辞は、その背後に、場面ごとにばらばらである自分を統括する中枢的な自我がなければならない、という予断を踏まえている。
その予断ゆえに、いま私たちの社会は、どのような局面でも、単一の語法でしかコミュニケーションできない人々、相手の周波数に合わせて「チューニングする」能力がなく、固定周波数でしか受発信することしかできない、情報感度のきわめて低い知性を大量に生み出している。
「中枢的で単一の自我」を理想とするイデオロギーは、「カルト」や「マニア」への社会の細分化、さらには社会集団の「ローカライゼーション」や原理主義や偏狭な部族主義と構造的には同型である。
社会集団は「同質的で、単一で、ピュアであるべきだ」という危険なイデオロギーを声高に批判する人々が「自我は同質的で、単一で、ピュアであるべきだ」という近代の自我論を放置し、しばしば擁護するがわにまわるのか、私には理解できない。
いまの社会では、「自分らしくふるまえ」、「自分の個性を全面的に表現せよ」といった「自我を断片化して使い分ける」ことにたいするきびしい禁忌が幼児期から働いている。そのような社会では、「ある局面においての私」と「別の局面での私」というものを切り離す能力は育たない。そして切り離せない以上、「もっとも傷つきやすく、もっとも耐性に欠け、もっとも柔軟性を欠いた私」なるものがあらゆる場面でまっさきに露出してくることは避けられないのである。
「学級崩壊」というような事態は、単純に言えば、「学校の教室で屈託している私」と「それとは別の世界にいる私」を適切に分離できない、という「自我の多重化不能症」の症状であると私は思う。
最近の若い営業マンのなかには、仕事上のささいなミスを注意すると、血相を変えて怒るものがいる。それが商取引という限定的な人間関係におけるできごとである、ということが理解できず、業務上の失態についての注意を自分の全人格に対する攻撃であるかのように受け取るからそういうことがおこるのである。
学級崩壊もそれと同じである。
教室にいる自分を「へらへら演じる」ことができないで、教室にいる自分を「まるごと生きて」しまうために、精神が痛めつけられるのだ。
いずれも「限定され、断片化された『私』を便宜的に演じる」訓練ができていないことに由来する。
この趨勢はフェミニズムにも典型的に露出している。
「妻らしく」「女らしく」「娘らしく」・・・といった一連の「らしさ」の否定とは、要するに「最終的に収斂すべき、単一の、かけがえのない、中枢的『私』」という幻想なしには、成立しえない。それがどれほど危険な幻想であるか、ほんとうに理解しているフェミニストはおそらくいないだろう。
私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議におもってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上の内田 樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」なの。
あそこで私が「・・・した」と書いているのは、私が本当にしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじえてつくった「お話」なの。
「私」はと語っている「私」は私の「多重人格のひとつ」なのだよ。
そういう簡単なことが分からないひとがたくさんいる。
私が匿名でものを書かないのは、そのせいである。
私は匿名で発信する人間が嫌いだけれど、それは「卑怯」とかそういうレヴェルではなく、「本名の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、と信じているそのひとの妄想のありかたが気持ち悪いのである。
私は「内田 樹」という名前で発信してぜんぜん平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思ってなんかいないからである。