1月11日

2000-01-11 mardi

文学部教授会は思ったほどの波乱なく終わりました。しかしいろいろと大胆なご発言が飛び交い、あるいはあの日の会議が神戸女学院大学の「分岐点」だったのかもしれません。(そういうことは未来になって振り返ってみてはじめて分かるのですが)
私の個人的印象としては、W部先生の「研究者としての生活さえ保証されるのであれば、そのほかのいかなる苦難も私は甘受する」というひとことが会議の雰囲気を決定したような気がします。
たしかに贅沢言ってられるような状況ではないのだと私も思います。
しかし、自分でふった話を自分でひっくり返すようですが、以前に廣松渉について書いたことを思い出しました。
話を「現在は危機的状況である」という認識の共有を求めるところから出発する、というのは、マルクス主義の論理構成の常套手段なのであります。
マルクス主義者の論の進め方はこんな具合です。

「現在は危機的状況である」(命題A)
→「現在を危機的であると感知できないのは、現状から受益している支配者階級の主観的願望(「このままであってほしい」)ゆえの認識の濁りである」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)
→「『危機感の強い』ひとは知的かつ倫理的であり、『そうかなあ?』と懐疑的になるひとは非知的かつ非倫理的である」(命題B)(ルカーチ『歴史と階級意識』)
→「変革のプランはラディカルであればあるほど正しく、微温的であればあるほど誤っている」(命題C)(レーニン『国家と革命』)

私が知る限り、マルクス主義者(とかフェミニスト)の書くものは全部、この論法で書かれています。
しかし、よく読むと分かりますが、これはかなり危険な論理の飛躍を含んでいます。
→でつないでありますけれど、「現状は危機である」という「命題A」と「『現状は危機である』と認識する知性は、そうでない知性よりも高度である」という「命題B」のあいだには、実は全く論理的関係がありません。
そもそも命題Bは、蓋然的にはともかく、論理的には偽命題です。
たとえば『ジョーズ』では、危機感の強い保安官は鮫の襲来を予測して超法規的措置に訴え、危機感のない市長はパニックを引き起こします。(蓋然的に妥当する例)
でも『タイタニック』の場合は、危機感の強い乗客たちは醜くボートを奪い合い、危機を生き延びることよりも「現状維持」にこだわる人たち(弦楽四重奏団のひとたちなど)はむしろ人間的には堂々たる態度をとります。(妥当しない例)
で、何が言いたいかというと、「危機管理」をめぐる議論は、その前提となるはずの「現状は危機か否か」というところで、いきなり知性のクオリティの競い合いになってしまうので、けっこうもめちゃう、ということなんです。
「今は危機か否か」という判断は、「あしたは晴れるか雨になるか」というような単なる予測の妥当性の問題ではなく、判断するひとの「知性」の問題に置き換えられます。
「危機派」の人々は、はじめから「啓蒙的」なスタンスをとり、「現状維持派」の人々は、いきなり「知的劣位者」のポジションに放り込まれます。
これはかなりアンフェアな議論の進め方ですよね。
私自身はもちろん「危機派」なんですけれど、自分が会議の席だと、なんとなく「あのね、かみ砕いておしえてあげるけどね」的ないやみな口吻になってしまうのには気がついているのです。そして、それが私の個性から発しているのではなく(一部は私のいやみな個性から発しているが)、むしろこのような論の立て方を選んだ瞬間にそこに内在している言説構造に私自身がからめとられているわけでもあるのです。
ラカン的にいうと「他者が私を通して語っている」わけです。
これはすごく腹が立つのだ。(なんでおいらがマルクス主義者みたいな口のききかたをしてしまうだろう。うう、くやしい)
私は自分の言葉でしゃべりたい。
「内田君て、『自分ではそれと気づかぬマルクス主義者』なんじゃないの、単に」
うーむ。そういう見方もあったか。気が付かなかったよ。
だとすると、私は実は「自分ではそれと気づかぬフェミニスト」で、「自分ではそれと気づかぬポストモダニスト」でもあるのでしょうか。
それだけは、勘弁。