今日で授業はおしまい。V限の大学院で『コレクター』を見るだけ。わーい。
明日は年内授業打ち上げ記念宴会。お招きするのは、難波江、三杉、飯田、石川の四先生と、総研大の院生ふたり。また「よせばいいのに」フェミニズム論争に踏み込んで飯田先生や難波江先生にいぢめられるのかしら。
そういえば、先日新聞に「アカハラ」ということが出ていた。「アカデミック・ハラスメント」。上野千鶴子の造語だそうである。(あいかわらずはた迷惑なことを思いつくひとだ)
男性の大学教員がその権力を背景にして「わしにさからうと論文を通してやらんぞ、仕事も捜してやらんぞ」と女性の助手や院生をいぢめることを「アカハラ」というのだそうである。
私は男性の大学教員であり、その権力を背景にして、ねんがらねんじゅう、女性の学生や院生に説教をかましていぢめているが、これはやはり「アカハラ」になるのであろうか。
しかし説教をかますのは教育的指導のためである。「よちよち、いいこでちゅね」と甘やかしているだけでは、ぜんぜん教育にならないことは誰にでも分かる。
ろくでもない論文を書いてきたら、こんなものでは学位はだせんと言うだろうし、仕事がほしいといってきても、人に教えるのは十年はやいと回し蹴りをくらわすこともあるやもしれない。
それを相手が女性だからだというので「アカハラ」といわれたのでは私の立つ瀬がない。
いぢわるが純粋に教育的なものであれば「指導」であり、いぢわるに性的含意があれば「アカハラ」ということなのであろうか。
「性的含意」と言っても、別に「ふふふ、魚心あれば水心というではないか、越後屋」「あれー、ご無体なー」というふうに性的関係を取り結ぼうとかそういうのではなく、女性研究者の成績や業績の査定に男性研究者の場合とは違う基準をもちこむことを指すのだというかもしれないが、果たしてある研究者の評価に、そのひとの性別が「どの程度」影響しているか、ということが客観的に測定できるものであろうか。
現に、私たちはひとの業績を評価するときに、その人の人物と切り離して、仕事だけを見るということがなかなかできない。個人的なつきあいのなかで、すごく「いい人」の場合はどうしたってオープンハーテッドな読者になってしまうし、すごく「やなやつ」の場合は、どうしたってクリティカルな読者になってしまう。
指導教官が弟子の論文を査定するときに、教官の持論と反対の見解を述べていたり、むかし大衆団交の席で「くそじじい」と怒鳴られた過去を根に持ってたり、この間、酒席で「なんです先生、湯豆腐しか喰わんのですか。あ、もう歯が駄目なんだ。ははは、野生動物ならもうお疲れさんですね。はっはっは」と笑ったことを根に持っているとか・・さまざまな理由によって、指導教官の眼は曇る。
「私はつねに客観的である。嫌いな人間にたいしてさえ、評価は公平である」などというひとは相当面の皮のあついひとである。
研究業績の完全に客観的な評価などできやしない。
学術論文はひとつの「作品」である。その点では美術作品や音楽作品や映画などと変わらない。「すばらしい」というひともいれば「けっ。くだらねえ」というひともいる。それぞれの判断にはそれなりの理由はある。
だから、どの研究者も自分の業績は不当に低く査定されていると思っている。(「自分の業績は不当に高く評価されている」と思って恥じ入っている研究者というのに、私は一度も会ったことがない)
そのときに「まあ、誰でもだいたいそういうふうに感じるのよね。うぬぼれは人間の業だから」と思うひともいる。
「指導教官がおれを嫌っているからだ」というふうに思うひともいる。
「自分はあまりに時代を追い抜いてしまったので、ばかな指導教官には理解が及ばないのだ」と思いこんでいるひともいる(けっこう多い。これがいちばん多い。私がそうだ。)
なかには「私が女だからだ」という理由を思いつく人もいるだろう。
その推測はたぶんいくぶんかは当たっているが、理由の全部ではない。
こういう場合にほかの可能性を検討するよりさきに「私が女であるから私は不当に低く評価されているのだ」という推論に意識が集中してしまう知性というのは、学術的知性としてはあまり評価できない。
学術的知性というのは、正解を出す前に、考え得る限りの可能なオプションを思いつく力、既存の類推のフレームワークから大きく逸脱する力を重要なファクターとしている。
「女であること」が研究業績の評価に影響しているのは事実である。それは「体臭がきつい」とか「歯並びが悪い」とか「服の趣味が悪い」とか「酒の席で暴れる」とかいう、研究者の能力とはとりあえず直接関係のないことが研究業績の評価に影響するのと同じである。だから「性差が能力査定に影響している」ことは証明できる。
しかし、それが能力査定に際して査定者が考慮したもっとも大きいファクターであるかどうかは証明することができない。それ以外の条件が全部同じ「男性研究者」というものがいないと比較は成立しないからだ。そして「それ以外の条件が全部同じ」研究者なんて同性であれ、異性であれいるはずがないからだ。
どう考えても「アカハラ」認定は恣意的であることをまぬかれない。
もちろん、私はだから「アカハラ」なんて言うなと言っているわけではない。
どのような愚劣な理説であれ、それを開陳する資格は誰にでもある。私はただ、自分のまわりに女性であることが「自分の研究が不当に低く評価されていること」の主要な理由だと主張する女性研究者がいたら「あ、すげー頭の悪いひとなんだ」と心の奥で思うだけである。
(1999-12-21 00:00)