20 Dec

1999-12-20 lundi

ようやく風邪がなおった。
土曜日曜と13時間くらい眠って、少し「人間らしく」なる。
人間らしくなったので、早速机に向かって仕事を探す。
う・・・・仕事がない。全部終わってしまったのだ。
そこで街へ繰り出してわいわい遊べば私もより「人間らしく」なるのだろうが、そういうことは全然なくて、中根さんの「キック」を思い出して、おもむろにコリン・デイヴィスの『レヴィナス入門』の翻訳を始める。
お、これはおもしろい。(一度読んで、それで中根さんに勧めたのだけれど、内容を忘れていた。)
非常に共感するフレーズがあったのでご紹介しよう。

「レヴィナスの仕事については、すでにこれまで膨大な入門的あるいは専門的な研究書、研究論文が書かれてきた。しかし私が見るところ、レヴィナス思想についての専門的研究は、あまりにも多くのことを自明のこととしており、そのせいでレヴィナスのテクストが提起している読みの問題を、私たちに役立つような仕方で解明してくれているというよりは、問題そのものを再生産する傾向にある(ように、私のような読者には思える。)一方、入門的な書物はレヴィナスをやたらにありがたがることはないかわりに、レヴィナスの鍵となる概念の基本的な難解さを見落としがちである。」(Colin Davis, Levinas An Introduction, Polity Press, UK, 1996, p.4)

そうなのだ。どの領域でもそうだけれど、思想系の専門研究書は「あまりに多くを自明のこととしている」ために、その思想がじつはものすごくラディカルで生々しく非常識的な要素を含んでいることを忘れてしまう。
その一方で、入門書は誰にでも分かるように書こうとするために、なまじな論理的思考力では考想不可能な概念があるいうこと(まさにそういう概念を「思いついた」ところにその思想のオリジナリティがあるのだけれど)を見落としてしまう。
一方は「学会内部的常識」の、一方は「生活内部的常識」の、それぞれ虜囚である。
だいたい学術論文で「周知のように」という書き出しがあったら、その後に続くフレーズはそいつがうまく説明できないことで、それが何を意味するのか本人にも分かっていないことだと断じてまず間違いない。
「周知のように現実界は太古的イマーゴが跳梁する審級であり、言語でこれを語ることはできない。」なんて言う文を見たら、すかさず

「『現実界』って、おまえ、みてきたんかー」とつっこみをいれましょう。
「言語で語らんと、何で語るんじゃい、こら」
「『太古的イマーゴ』って、おまえ、『近代的イマーゴ』なんつうもんがあったら、出してみい」

おっと、つい言葉が乱れてしまいました。失礼。
つまりたいせつなのは、学会内部的であれ、生活世界内部的であれ、「ナントカ内部的」な常識をひきずっていたのでは、真にラディカルな思想には触れられないということである。
がるるがるる。
どうも思想的な話題になると、興奮してしまう。
ともあれ、そういうわけで昨日からばりばりとデイヴィスの翻訳をしている。本人が先行の研究書にきっちりいちゃもんつけているだけあって、よく書けている。だいたいワンフレーズ、が1.5行。これは学術論文としては例外的に歯切れの良い文章といわねばならない。
「早い話が」のコリン・デイヴィスの文章を「早い話が」の内田が訳すわけだから、出来あがる訳文は立川談志の落語みたいなエクリチュールになるのではないでしょうか。おおこれは楽しみだ。
本、買って。(まだ4頁しか訳してないけど)

お兄ちゃんから『映画は死んだ』の感想文が来る。
心温まるメールだったので、転載させて頂きます。

「たっちゃんの新刊受け取りさっそく読みました。読み始めたら止まらないほどおもしろい。(松下君のところは読み飛ばした。ごめんね、松下君。)That reminds me of a story. とてもスリリングな文章でほんと感心しました。
たっちゃんはもっともっと本を出すべきです。
ところで、本に付いていた手紙を後から読んで、ふと感じたのですが、つまり、毎日雑事に追われて云々、というところですが、ぼくも全く同じように感じることがあります。ぼくの場合は部下の誰かにやらせればいいにですが、それができないし、しない。(今も事務所の入口のガラスのドアを磨き上げたところです。)
どうしてか?
この回答はたっちゃんが自分で本に書いているじゃないか。
「自分の欲望のことはすっかり忘れてる」って。
たっちゃんやぼくは、一般的な労働者と異なり、ほとんど自分の好きなように生活してるわけで自分以外の誰かにノルマを課せられているわけではない。
結果的に僕たちは、エンドレスに仕事をしているわけです。
そうでしょ?
ところが、普通の人(ぼくたち)には、それは精神的に耐えられないわけです。
そこで、ドアを掃除していっちょあがり、手紙を出していっちょあがり、というように生活のなかでひとつずつピリオドを打って、精神のバランスをとっているわけです。
「誰にでもできる仕事」に圧迫されているのではなく、本業のエンドレスの仕事に圧迫されているため、それから一時でも逃れるため、雑事をやっているのです。
自分の欲望は見えない、とはよく言ったもので、ぼくの疑問は、この一言で解消しました。
やっぱり、たっちゃんより兄ちゃんのほうが2年分思考のレベルが高いみたい。
温泉には行きます。」

兄ちゃんのほうが二年ぶんおりこうさんみたいですね。それから兄ちゃん、松下君の文章も読んであげてくださいね。