19 Nov

1999-11-19 vendredi

まだ風邪が治らない。
じゅるじゅるしていたら、図書館から電話があって、私が購入した高橋源一郎の『あだると』の配架について「内田先生はこの本がどんな内容だか分かって買ったのですか?」という問い合わせがきた。
『あだると』はAV業界に取材した爆笑小説で、『週刊女性』に連載されたのが初出というめでたい出自である。私が大笑いして買った本だから図書館のおばさまたちが目を剥いたとしても怪しむにたりない。
うちの図書館にはいま高橋源一郎の著作は一冊もない。そこで私が大量に今回高橋源一郎の単行本を購入した。
村上龍は6冊だけ、橋本治はエッセイだけ(『桃尻娘』も『窯変源氏物語』もない)、逆に村上春樹はエッセイは一冊も入っていない。椎名誠や中島らもに至ってはかげもかたちもない。これが本学の図書館の日本現代文学に対するスタンスである。
現代日本文学の先端的な仕事をキャッチアップすることに本学の図書館も教員たちも関心がないらしい。
しかたがないので畑違いの私なんかがほそぼそと現代文学を補充しようとすると、さっそく『あだると』では困ると言ってくる。
よろしい。セックスを主題にしたものはいかんという原理原則があったうえで「困る」と言ってくる以上は、当然ながら本学の図書館にはバタイユの『眼球譚』もマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』もロレンスの『チャタレー夫人の恋人』もあってはならないはずである。
もちろん、ないんでしょうね。
『眼球譚』がよくて『あだると』が悪い文学的な根拠をどなたかが私に提示してくれたら、いさぎよく私は引っ込む。
私が高橋源一郎にこだわるのはいささか訳がある。
数年前、朝日新聞の文芸時評で高橋源一郎が有害図書、有害コミックを規制する「良識」的世論にかみついたことがあった。
「こうした漫画や写真を幼い時から見せられて育つと、どんな人間になるのだろう。文化の将来を考えて、そら恐ろしい気持ちにもなる。」という、いかにも朝日の社説らしい「常識的」見解に対して、高橋は次のように反論した。

このような意見を支えているのは「この世には豊かで芸術的な優れた作品がたくさんあり、それは保護されるべきだが、クズにはそんな特典を与えることはない」という文化における差別意識である。しかし「それは、おれの考えでは、表現がわからない人間が表現に関して持っているもっとも大きな妄想の一つなのだ。」
「人間が関与する表現の大半がクズであることは、統計など読まずじっさいその表現に接している人間ににとって自明のことなのだ。『貧しい』のは漫画だけではない。文化は『クズ』の集積そのものなのである。もし『表現の自由』というものがあるとするなら、それは『クズである自由』なのだ。それがわからないなら、文化について口出しすべきではないのである。」

けだし名言というべきであろう。
文化の成熟にとって大切なのは「包容力」である。あらゆる愚行、あらゆる「クズ」をにこやかに受け入れることのできる文化の中からしか、本当に「豊かで、優れた」表現は生まれない。優れた表現はそれに数万倍する「クズ」の滋養に支えられて生まれるのである。
勘違いしないでほしいが、私は高橋源一郎の文学作品は「クズ」だけど、図書館はそれを受け容れる度量を示せというような極左冒険主義的なことを主張しているわけではない。
高橋源一郎の作品は現代日本文学のひとつの極点であると信じているからこそおおくの学生に読んで欲しいと望んでいるのである。配架してください。おねがいします。